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“鉄道”にも大きな差…独ソ戦下で動かなくなった「ドイツ機関車」

鴋澤歩(ばんざわあゆむ:大阪大学経済学研究科教授)

2020年06月22日 公開 2022年02月22日 更新

 

悪化する戦況に反して、激化するドイツの鉄道の生産と開発

ドルプミュラーは、ヒトラーの意向によって、ライヒスバーンの顔として職にとどまった。交通大臣としては鉄道業以外の権能を奪われ、国鉄総裁として公的行事の表に出るのも次第にガンツェンミュラー次官に任せることが増えた。

一つには、このころから健康を損なっていた。1942年10月、ドルプミュラーはフランスなど西部占領地を視察する出張に出たが、そのころ、東部戦線のスターリングラードの戦いは、攻守逆転の兆しをみせていた。帰国後、大腸癌が発見され、年末には手術をうけた。同じ時期、都市攻防戦の戦況は決定的に悪化していた。

43年2月、逆包囲されたスターリングラードのドイツ軍は降伏した。この大敗により、ドイツがソ連に対して軍事的勝利をおさめる可能性は、物理的にほぼ消滅した。ドイツ人をふくめ、ほぼ全世界の目にナチス・ドイツ敗戦の運命があきらかになった。

そんななかで、シュペーアは強制労働の大量導入を軸にドイツの工業生産力の維持に努め、ドイツの戦争遂行能力を保つ。

それを輸送面で支えるべく、ガンツェンミュラーは「車輪は勝利のために回らねばならぬ!」をスローガンに掲げた。旅行の制限など民生をある程度犠牲にしても戦時輸送を確保しようとした。

ドルプミュラーも手術の予後がよく、すぐに職務に復帰できた。夏には、ライヒスバーンは機関車の大増産計画をたてている。工程を徹底的に省力化した「戦争機関車」が設計され、輸送増強のための配備が進められた。なお戦争は続く。

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