自分がないと皆に好かれようとする
では1番自分に合った人とはどういう人であろうか? 一般的に1番素敵な人とはどういう人であろうか?
2人になったときに何を話していいかまったくわからないときには、その人は一般的に1番素敵な人ではあるが、あなたに合った人ではない。あなたに合った人なら、話すことは自然と出てくる。自分を守ろうとしたときに会話はなくなる。自分の弱点を隠そうとしたときに会話はなくなる。
だから自慢話が多くなるときには、その人は自分には合っていない。「モテちゃって」とか「口説かれて困っちゃった」と言っているときには、その人は自分に合った人ではない。
会話している相手が「今私を軽く見ている」と感じている。だからそういう自慢話をする。相手に色目を使った。でも相手はのってこない。そこで「私はそういうレベルの女なの」と見栄を張ってしまうから、「口説かれて困っちゃった」と言うのである。
また恋人と食事をしていて、苺の味も、アイスクリームの味も分からない、何を食べても同じような味のとき、そのときは、自分が鎧を着ている。だからその人はあなたに合った人ではない。その人は一般的に1番素敵な人である。
「自分がない」人はリラックスした生き方が分からない。それは誰と接して良いか分からないからである。「自分がない」人は、一般的に1番素敵な人を好きになる。だから、「私にとって」素敵な人がいない。
一般的に1番素敵な人は最高の人、「私にとって」1番素敵な人は、最善の人。最善の人がいないと、人に良く思われようと努力する。人から「良い人」と思ってもらおうと頑張ってしまう。
それは自分がそういう最高の人と接したいからである。自分がそういう最高の人を好きだからである。「自分がない」人にとっては、皆から好かれるということが大切なことなのである。皆から「良い人」と思われることが大切なことなのである。
だから皆から「良い人」と思われたいと、無理をして頑張ってしまう。しかし「自分がある」人は、一般的に1番素敵な人を好きになるわけではない。だから自分も皆に好かれようなどとはしない。皆に好かれることはあり得ないと思っている。自分が一般的に1番素敵な人を好きではないのだから。
今でも会いたいと思うか
「自分には好きと嫌いがない」ということは「自分がない」ということでもある。以前に接していた人の中で、今誰と会いたいか、誰と会いたくないか。それを考えてみる。
つきあっている当時は「好き」と思っていたけれども、もし今会いたくないのなら、それはその人を好きではなかったということ。そう考えるほうが正しいだろう。
もし、接している当時その人が好きだったなら、時を経て思い出したときには、懐かしくて会いたいと思うはずだ。会いたくないと思うなら、「あー、そうか。実はあのときに自分はあの人を嫌いだったのか」と自覚することである。
そうして1人ひとりを自分の心の中に呼び起こして、自分が当時「どう思っていたのか」と「今どう感じているのか」を比較する。今までの人生を自分は、本当はどう感じて生きてきたのかをハッキリとさせる。
そうすれば自分に嘘をつき続けて生きてきた人生が見えるかもしれない。今感じるように、これまでは感じないで生きてきたとすれば、振り返って自分の人生が虚しいのは、当たり前である。
仮に淋しかった、認められたかった、好かれたかった、注目されたかったという感情が過去にあったとしても、それはそれで良い。そう欲する自分がいたのも事実なのである。そうした欲求に振り回されたことを後悔する必要はない。
何よりも大切なのは「昔の自分はそうだった」と自覚することである。もしかしたら、振り返って自分には好きなことは何もなかったと思うかもしれない。あるいは、好きな人など1人もいなかったと思うかもしれない。
自分には好きなことなど1つもなかったということに気がつくのも、大切なことである。そしてそれらを嘆かない。これからの自分の人生の夢のためには、それも必要な過程であったと思うことである。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。