「雑学をひけらかす人」の虚無...古代ローマ哲学者が示した“よい人生の条件”
2021年09月14日 公開 2022年01月13日 更新
セネカが批判した"雑学ばかり身につける人"
セネカは、得るべき英知との違いを際立たせるものとして、雑学の研究に没頭する人を厳しく非難します。
たとえば、『イリアス』と『オデュッセイア』はどちらが先に書かれたのか、ローマの将軍で最初に海戦に勝利をおさめたのは誰か、誰が最初にライオンを鎖から外して大競技場で見世物にしたのか。これらの知識が誰のあやまちも正さず、誰の欲望もおさえず、誰も正しく導かない、という点で学ぶに値しないのだとされます。
そういう点では、現代でも学ぶに足るものと、まわりの人と会話を合わせるために知っているものがあるように感じます。なかには知ることが害にすらなるものもあります。
セネカは、真に閑暇な人になりたければ、英知を手にするために時間を使えと主張しました。自分自身が何に時間を使っているかは、人生そのものでもあります。私たちは、お金の使い方以上に、時間の使い方に敏感にならないといけないのかもしれません。
不遇のなかで活躍したセネカに学ぶ"人生の生き方"
セネカは暗帝に仕えなければいけない、不遇ともいえる環境下で勤めることになったとすると、人に振り回されることが多かったのだと想像されます。そのような環境下でも、自分の人生の舵を握り続ける意思が本書の主張に結実しているのかもしれません。
同じことがらに直面した際に、どう感じるかによって、その人にとっての世界のあり方は変わります。セネカは職を解かれた時間ですらも、自分の意思をもって過ごせる時間が与えられたとポジティブにとらえていることが印象に残ります。
自分の人生を生きるというのは、何が起きてもそれをいい方向に展開しようという、ポジティブな姿勢が大切な要素だと感じます。仕事でもピンチのときに活き活きする、ちょっとよくわからない人たちがいるかと思いますが、その前向きなエネルギーは組織にいい影響を及ぼすものです。
おそらく幸福についても似た傾向があるように感じます。自分が幸福な人ほど、まわりの人に幸せの要素を伝えられるものではないでしょうか。その人が自分の人生を生きている人であれば、きっと周りの人も自分の人生を生きるためのいい影響が与えられていることでしょう。
科学は進歩しても人類の内面は変わらない
現代人の視点からセネカの主張を読むと、あまりにスマートフォンの通知が多くて、自分の人生を生きることの大変さに絶望すら感じます。今この記事を書いているときも、数分置きに会社のグループウェアや、SNSからの通知があって、集中が保てていないことを実感しています。意味のあるものを書くためには、しばらく通知を遮断しないといけないと改めて考えさせられます。
本書はいわゆる難解な理論哲学ではなく、実践哲学に該当する作品なので、直観的にもわかりやすい、読みやすい作品だと言えるでしょう。出てくるトピックや事例の時代背景は異なりますが、現代に書かれた内容だと言っても違和感のないものになっています。
約2,000年の時を経て、科学は進化しても、人類の内面は変わらないものだと感じます。人生の長さは私たち次第であり、寿命そのものをのばすこと以上に意味のある時を過ごすことの大切さを伝えられます。
そして本書を読む行為自体が、本書で述べられた英知を手に入れるための時間となり、人生を有意義なものにしてくれるようでもあります。自分の時間の過ごし方を見つめ直す『人生の短さについて 他2篇』は、読書の秋にぴったりの一冊ではないでしょうか。