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生き方

今年107歳で逝去した美術家・篠田桃紅「人を招くことの、主役はやはり人ではないか」

篠田桃紅(美術家)

2021年11月04日 公開

2021年3月1日に107歳で逝去した世界的美術家、篠田桃紅さん。5歳の時に父の手ほどきで初めて墨と筆に触れてから、ほぼ独学で書を極め、やがて美術の世界へ。随筆の分野でも現代の清少納言といわれた瑞々しい感性にあふれています。本稿では篠田さんの随筆集『朱泥抄』から、人を家に招くことへの思いを綴った一説を紹介します。

※本稿は、篠田桃紅著『朱泥抄』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。(本書は1979年にPHP研究所から刊行された同名の書籍を再編集、新装復刊したものです)

 

来客の際の「結び文」

人が家に集まってくれるのはたいへんうれしい。私などは招くといっても気の置けない人々に来て貰うのであるが...

やってくる側の人たちも「何かやらせられる」ぐらいの覚悟というと大げさだが、ただじっとしてゴチソウになる気はなさそう、とこれはいわば私の勝手な都合のいい推測であるが...そのへんの以心伝心で、集まりは行なわれる仕組みになっている。

人々を招くということで、何が大切かといえば、室内外のしつらえ、たべもの飲物もさることながら、主役はやはり人ではないかと私は思う。集まった人々がそれぞれ「人と会うのはいいな」と思うような具合にいかなければ、人が会う意味は少ない。

しつらえ、珍味佳肴はあくまでも添えであって主役ではない。と自己弁護して、さて今日は人々がやって来る、みんなで語り飲み食べる様式はさまざまあれど、本質は古来あまり変らない。

しかし人手ということは昔のようには参らない、我が家は至って手薄であるから、おいでの方々の覚悟のほどを利用して...ということになる。だからといって、お客様に命令するほど強気でもないので、考え出したのが結び文である。

お越しになると、まずお盆の中の一つをお取り頂く。解くと何か書いてある。「お酒」「お茶」「お相手」「くるま」とか――、このたびやって頂く役割りである。

「飲物」の係りになって頂く方は、人々に何をお飲みになるか聞いて作って上げて下さるというような、また「くるま」の方には、駐車の配慮、お帰りの時の同じ方面の方の乗り合いの組合わせ。「でんわ」と引いた方には、ベルが鳴ったらなるべくすっとんで行って受けて頂く。

ぽつねんとしている方がないように、「お相手」の方は絶えず気を配って、誰かを引っぱって紹介し...というあんばいだから、当家のぬしはまことに安閑としていられる。こういうくじは、よく適材に適当するもので、先夜の「デザート」に当ったお方の、お菓子の配分は見事であった。

「ほんの少し...」と言う方へは、取り皿をはみ出す程に切り、「おいしそう...」とおっしゃるお方には薄く切って上げていたソフィスティケートな御対応は、正直者の私などにはとても及ばぬ振舞いと感嘆した。

この結び文も、ただ「電話」「お酒」では味気がないので、この頃は合言葉や替え言葉を探して書いて見ようと「電話」は「長ばなし」、「お酒」を「しらたまの」としてみたがどうも謎々じみて陳腐だし、結び文というのは本来もう少し艶なるおもむきがあって然るべきなのに、力足らずのうらみ、そのほうもまたお客任せ、食後、酔余、一寸独りになりたい人の為に、小部屋に白扇、色紙、筆墨の用意をして、独り言のらくがきをして頂くことにしている。

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