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なぜ伊達政宗は秀吉から許されたのか? 歴史人物たちの「驚異の交渉力」

加来耕三(歴史家・作家)

2022年01月19日 公開 2022年10月04日 更新

 

勝海舟...「篤姫と和宮」という持ち札を徹底活用

幕末において優れた交渉力を発揮した人物としては、勝海舟が挙げられます。

1868(慶応4)年3月、江戸の街は西郷隆盛率いる新政府軍に包囲されていました。第15代将軍だった徳川慶喜は既に大政奉還を行ない、鳥羽伏見の戦いに敗れたのち、新政府に恭順の意を示して上野に蟄居していましたが、新政府側はこれでは満足せず、徳川家の息の根を完全に止めたいと考えていました。そのため、江戸城への総攻撃を企てていたのです。

このとき、旧幕府側の代表として西郷との交渉にあたったのが、海舟でした。

結論から先に言うと、海舟は西郷から「徳川家の存続」と「江戸城への総攻撃の中止」という二つの譲歩を引き出し、交渉に勝利します。

実は、交渉が始まった時点で、海舟の勝利は約束されたようなものでした。

多くの交渉事は、テーブルに着いたときから始まるのではなく、その前にどれだけ手を打ったかで勝敗が決まります。海舟は、ちゃんと手を打ったうえで、西郷との談判に臨んだのです。

交渉事では、まず相手側の状況を把握することが重要です。

当時、旧幕府側には、薩摩藩から第13代将軍家定に嫁いできた天璋院篤姫と、皇室から第14代将軍家茂のもとに降嫁してきた和宮という、2枚の手持ちのカードがありました。

そこで、篤姫には薩摩藩に、和宮には朝廷に、せっせと徳川家存続嘆願の手紙を書かせ、相手から返ってきた手紙の内容を徹底的に解析しました。その結果、新政府側は必ずしも一枚岩ではないらしいことが判明しました。

江戸城総攻撃の大将を任されていた西郷も、新政府や薩摩藩から盤石の支持を受けていたわけではありませんでした。薩摩藩の一番の実力者であった島津久光は、懐刀の小松帯刀と共に国許に留まっていました。

もし江戸城総攻撃が失敗したときには、「あれは西郷と大久保利通が勝手にやったことだ」と言い張ることで、薩摩藩を守ろうとしていたのです。

 

最悪の事態に備えておけば精神的に優位に立てる

西郷の弱みを握った海舟は、次に、新政府寄りだったイギリスの公使・パークスと密かに接触し、イギリスが西郷を支援しないように手を打ちます。

そのことを知らなかった西郷は、パークスに対して「旧幕府軍との戦争が始まったら、負傷者を治療するための医者を貸してほしい」と依頼します。

パークスの返事は、西郷にとって意外なものでした。「慶喜は恭順を示しているものではないか。白旗を揚げている者を攻撃するのは国際法違反だ。にもかかわらず戦いを仕掛けたならば、我々もしかるべき措置を講じる」と言うのです。これが、西郷が江戸城総攻撃を諦める決定的な要因となりました。

さらに海舟は、交渉決裂という最悪の場合に備えた策も練っていました。その策とは、江戸の人々を舟で川越に逃がしたうえで、江戸市中に自ら火をつけるというものでした。ナポレオン戦争においてロシアが用いた焦土作戦です。

「最悪の場合にはどうするか」をあらかじめ決めておけば、交渉に際して腹が据わります。こうして精神的にも優位に立った海舟は、西郷との交渉に勝利を収めることができたのでした。

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