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生き方

なぜ永眠という言葉で覆い隠すのか? 89歳の詩人が向き合った「死ぬこと」

ドナルド・ホール(訳:田村義進)

2022年02月07日 公開 2024年12月16日 更新

「老いは喪失の儀式だ。」アメリカの桂冠詩人、ドナルド・ホールはそう語る。自身の癌、最愛の妻の死を経て80代になり、日がな一日、窓辺にたたずみ、そこから見える風景、過去を振り返りながら今を生きることを静かに、リリカルに、そしてユーモラスに表現する。

死と老いることについてありのままに見つめるまなざしは、"いま"を自分らしく生きていく方法について、さりげなく教えてくれる。そんな彼が書いた、いま国を超えて読まれているエッセイの一節を紹介する。

※本稿はドナルド・ホール(著) 田村義進(訳)『死ぬより老いるのが心配だ  80を過ぎた詩人のエッセイ』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

死について、思うこと

もうすぐわたしは死ぬ。そう思い定めるだけの分別は持っているつもりだ。眠りにつくのではない。死亡欄や記事や訃報やEメールのなかでは、日々、何百万というひとが"永眠"する。誰も"死ぬ"とは書かない。安らかに眠る、世を去る、骨になる、旅立つ、往生する、息をひきとる、みまかる、神に召される、あの世へ行く、看取られる、主のみもとに帰る、没する、逝去する、他界する、などと言う。

どんなきれいな言葉を使っても、死は死だ。気がつかないうちに静かにやってくることもあれば、断末魔の苦悶(癌とか)を伴うこともある。夫婦の場合には、"先立たれる"と言ったりもする。普段はあまりお目にかからない言いまわしもある。卒するとか、露と消えるとか、瞑するとか、崩ずるとか、おっちぬとか。どの婉曲表現もあえぎ声が途絶え、息が消えていく現実を覆い隠す。

火葬は死体を消す。灰になれば腐ることもない。ネアンデルタール人もホモ・サピエンスも、死者を地中や塚に埋めた。ピラミッドは王の遺体を隠した。古代ローマ人の埋葬法は1世紀のあいだに火葬から土葬に変わった。

ヒンドゥー教徒は遺体をガンジス川のほとりで焼いている。かつては寡婦殉死の風習があり、夫に先立たれた女性のなかには生きたまま薪にくべられる者もいた。遺灰は川に流される。川面には赤ん坊の遺体が浮いていることもある。ゾロアスター教徒やチベット人は、遺体を高台に置いてハゲワシについばませている。

わたしのお気に入りのエピソードはごく最近のものだ。詩の朗読を終えたあと、わたしのファンだという女性がプレゼントを持ってきてくれた。小さな瓶で、そのなかには亡き夫の遺灰が入っていた。わたし自身は朽ちて土に戻りたい。妻のジェーンと同じように。

80代になり、当然のことながら、わたしの世界は狭まった。生活の場は1階だけで、食事は冷凍食品ですませている。郵便物はルイーズという配達員が玄関口まで持ってきて、ドアをあけ、椅子の上に置いてくれる。

わたしは寝室、バスルーム、キッチン、窓辺の新しい椅子、クリス・マシューズのトークショーや野球を見るときにすわる電動リクライニング・チェアのあいだを、四輪歩行器を押しながらゆっくり歩く。危険なことはしない。手紙を書き、昼寝をし、エッセイを書くだけだ。

(中略)文章を書いているときを除いて、死について考えることはもうない。ほどなく死ぬとわかっていると、そんなことはどうでもよくなるもので、もう女性と交わることができなくなったとわかると気が楽になるのと同じだ。

わたしはこれまでいろいろなことに情熱を持って取り組んできたが、もう情熱を傾ける対象はない――このエッセイは別にして。いまの人生の目標は粗相をするまえにトイレにたどり着くことくらいだ。

かつてはよく"いまを生きろ"と諭された。いまはそれ以外に何ができよう。 1日は同じことの繰りかえしで、すべてが瞬時のうちに終わってしまう。入れ歯をはずしたと思ったら、次の瞬間にはもう入れている。1週間は毎日の昼食以上に味けない。うっかりしていると知らぬ間に過ぎてしまう。

変化がわかるのは季節のうつろいによるものが大きい。ただ季節は毎年同じ順にめぐる。ちょこっと入れかえてみてもいいのではないか。夏から始まり、春が来て、冬になり、そのあと秋の感謝祭を迎えるのも悪くない。

 

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