「社員を一律平等に扱う」伝統的な日本企業によく見受けられる方針だ。しかし、元はと言えばどのような経緯で「一律平等」の発想が生まれたのだろうか。サイボウズ人事部の髙木一史氏が、人事制度の歴史を振り返りながら、日本企業の仕組みを解き明かす。
※本稿は、髙木一史著『拝啓人事部長殿』(ライツ社)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
戦前、会社のなかには明らかな身分差別があった
まず最初に解き明かしたいと思ったのは、「なぜ会社の平等は重んじられるのか」という問いです。
なぜぼくたちは、これほどまでに一律平等のしくみを強いられているのでしょうか。社員全員を一律平等に同じ待遇にしたい、という価値観が日本企業に強く根づいていることには、おそらくそれなりの歴史的経緯とそれを維持させてきたなにかがあったのではないか。
ぼくは、海老原嗣生さんと荻野進介さんが書いた『人事の成り立ち』 、小熊英二さんの『日本社会のしくみ』をはじめ、さまざまな文献を読み直しながら、人事制度の歴史についてひも解いていくことにしました。
そして、戦前から戦後にかけての日本企業のしくみの変遷にそのヒントを見つけました。
そもそも戦前の日本企業には、社内に「身分」とも呼べる階級的な区分が存在していたと言います。
具体的には「ホワイトカラー系(職員)」のエリート層と「ブルーカラー系(工員)」という区分で、その間には明確な格差があり、昇進のスピードが異なるといった見えにくい上下関係だけでなく、はっきりと給与や待遇に大きな差がつけられていたと言います。
たとえば、旧制大学を卒業して職員として入社した人の初任給は、50代の熟練工の3倍以上。職員は月給制なのに対し、工員はみな日給制で、極めて不安定な支払いシステムがとられていたそうです。
昇給も明文化された規定はなく、職長や職員の気まぐれに左右されていました。上司の家に薪割りや煙突掃除を手伝いにいくかどうかで、つまり、上司に気に入られるかどうかで昇給に差がつくこともあったと言います。
職員は神様扱いされ、工員が職員のプライベートのために駆り出されるのは当たり前。職員に口答えしようものなら「明日から会社に出てこなくてもよい」と怒鳴られる状況だったそうです。
ほかにも、 職員だけに図書室が開放されていたり、工員だけに入退出時の身体検査が課されていたり、さらには、職員と工員では門や食堂、トイレや売店なども区別され、売店で売られる品目にまで差がつけられているのが通常でした。
また、社内での呼称も差別的でした。明治末期の国鉄(現JR)のストライキでは、「運転士を機関方というのは、まるで馬方のようだからやめてほしい」といった要望が出されたり、大正時代の東京市電では、運転士たちが「おれたちが人間だというならチョウチョやトンボだって鳥になっちまう」と自嘲気味に語る様子が記録されています。
どう考えても、社員が「1人の人間として重視されている感覚」を得られていた、とは言いがたい状況です。いま考えると信じられないようなことですが、戦前はこうしたことが当たり前だったのですね。
戦中の総力戦体制が生んだ、ブルーカラーとホワイトカラーの連帯
しかし、こうした差別的な状況は、戦争という特殊な状況のなかで大きく改善されていくことになります。
ここからは、さらに海老原嗣生さんの『人事の組み立て』、濱口桂一郎さんの『日本の雇用と労働法』『日本の労働法政策』も参照しながら、学んでいくことにしました。
戦争が始まると、軍需景気のなか工員が徴兵されてしまうことで、日本企業は労働力不足に陥り、熟練工(ブルーカラー)に対する優遇策がとられるようになりました。
くわえて職員・工員の区別なく、だれもが貧しく飢えていたため、総力戦の名のもと身分の違いに関係なく一緒になってがんばっていこう、という風潮が芽生えはじめたと言います。
『日本社会のしくみ』では、1943年、企業の労務担当者が工員の待遇を改善した背景を回想したシーンが、次のように引用されています。
「兵役法が拡大され職員も工員も差別なく兵役義務が課されるようになり、また生活物資の配給制の実施で国民等しく耐乏生活を強いられるようになり、皇国勤労観に基づく新産業労働体制への切替えということで、平等思想が昂ってきて職工員の身分的差別が如何にも時勢に合わない古くさいものと感ぜられるようになってきた」
こうして、「会社の平等」の下地ができた状態で、1945年に戦争が終わります。