※本稿は野村克也著『理想の野球』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです
兼任監督の職を突然に解かれ
「野村さんの評論は歯に衣着せず、厳しいですね」と感想をいただく。現場の監督、選手からは「たまにはほめてください」という声もある。しかし評論とは、ぼやきと同じように、私が追い求めてきた理想の野球と、目の前で演じられる現実のゲームとのギャップをなんとか言葉で表現したくて生まれたものなのだ。
私がプロ野球の世界に入ったのは1954年。早いもので、この2012年春、59年目の開幕を迎えようとしている。これほど長く野球に関わってこられたのは、処世術に長けた人間だったからではない。人生の節目に、多くの出会いに恵まれたからである。評論活動においてもそうだった。
1977年秋、南海ホークスの選手兼任監督を突然解かれた。
当時、現役選手が日本シリーズのゲスト解説に呼ばれていた。私もシリーズ出場を逃した年は、いつもネット裏から悔しさ半分、試合を見つめるのが恒例だった。ところが、阪急が4勝1敗で巨人を圧倒した、この77年の日本シリーズには、監督解任直後のイメージダウンを恐れられたのか、どの局からも声がかからなかった。
そんな苦境に、前年までと姿勢を変えることなく、日本シリーズ評論を依頼してくれたのが、サンケイスポーツだった。逆風にも堂々と、南海球団に「野村に評論を依頼します」と仁義を切って、私を起用してくれたのだと聞いた。
それならば、誰にも負けない評論をしなければならない。西宮球場のネット裏観客席で、球種ごとに色を変えるための七色の鉛筆を手に、スコアブックを開いた。これが私の評論家生活の原点である。
草柳大蔵さんに「生涯一書生」という禅の言葉を教えていただいたのも、このころだった。私は深く感じ入って、「生涯一捕手」を座右の銘とした。
1980年に現役引退した後は、サンケイスポーツの専属評論家となり、また放送解説者、講演活動もこなすようになった。すると再び草柳さんからアドバイスをいただいた。
「お客さんが聞きたいのは、ためになる話、面白い話、興味を引く話です。一夜漬けの知識を話しても、底が浅いからすぐに見透かされるものです。背伸びをしてはいけない、野村さんの体験だけを話してあげなさい」。
私は自分が野球バカだと自覚していたから、3つのうちの興味を引く話しかできない。そこで、本塁打を打つための工夫やマスク越しのささやき戦術など、現役時代の舞台裏を話すようになった。
評論活動でも、同じことだけを意識した。「なぜ投手が本塁打を打たれたのか」「どうすればタイムリーが打てていたのか」。経験に根ざした「HOW TO」を、読者や後進の野球選手たちにわかりやすく伝えたい。
1試合に250球以上もの白球が行き来する野球にあって、勝敗を分けるのは1球であり、それは終わってみなければわからない。ネット裏では今でも、プレーボールからゲームセットまで、投手の全投球、全球種、ファウルの打球方向まで、1球かかさずスコアブックをつけるようにしている。1球の根拠をおろそかにしないために、1球漏らさず記録するのだ。
草柳さんの教えを守り、「興味を引く」話だけを評論してきたつもりだったが、いつしか「ためになる」「面白い」と受け止めてくれる読者が増えた。すると、現役引退から9シーズン、評論活動を続けたある日、ヤクルトの相馬和夫球団社長(当時)から、監督になってくれないかと声をかけていただいた。
「なぜボクなのですか? セ・リーグに縁のないパの人間ですよ」と尋ねた。「野村さんの評論を読んで、解説を聞いて、これぞ野球だと感心していたのです。うちの選手を教育していただきたい」。ああ、仕事を見てくれている人がいた。感激しながら再びユニホームを着た日を、鮮明に覚えている。
本当はふさわしい言葉ではないのかもしれないが、あえて使うことをお許しいただきたい。目あき千人めくら千人、ということわざがある。物事の道理がわかる人もいればわからない人もいる、という意味で、南海を解雇された時期に、草柳さんから「どこかにあなたの仕事を評価してくれる人はいる。だから一生懸命におやりなさい」と教わった。私は「その通りだ。ならば一番の野球評論家になろう」と理解し、評論に取り組んできた。
そのように大切にしてきたサンケイスポーツの試合評論を、この度新書という形で出版させていただくことになった。本書には、昨年2011年のほぼ全ての評論と、2007年から2010年までの日本シリーズ、さらに特別編として3編の評論を収録している。
本書を手にとっていただいた方には、「野村はこういう野球が理想なのか、こんな野球が見たいのか」と感じていただければ幸いである。