妻サッチー逝去から1年 野村克也氏が語る「残された夫のひとり暮らし」
2018年12月07日 公開 2024年12月16日 更新
(撮影:荒川雅臣)
<<2017年12月8日、野村沙知代さん逝去。予想もしなかった急すぎる最期。夫である野村克也氏は、ある日突然にひとり暮らしとなった……。
あれから1年。野村克也氏は今、何を思うのか。著書『なにもできない夫が、妻を亡くしたら』(PHP新書)から、その胸中と現在の暮らしを語った一節を紹介する。>>
※本稿は野村克也著『なにもできない夫が、妻を亡くしたら 』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです
薄れないサッチーの存在感
沙知代が逝ってから1年が経った。「去る者日々に疎し」というが、私のなかで彼女の存在は、大きくなりこそすれ、薄まることはない。
先ごろ、夫である三浦朱門さんに先立たれた作家の曽野綾子さんと対談した。その際、「旦那さんが亡くなって、生活に変化はありましたか?」と訊ねたところ、こういう答えが返ってきた。
「ふと青い空に夫の視線を感じることや、夫の声が聞こえると思うときがあるんです」
私も、折に触れて彼女の顔や言葉が甦ってくる。
「サッチーだったら、どう思うだろうか」
「彼女なら、どうしただろうか」
何かを判断したり、決断したりするとき、思いを巡らすことがある。
サッチーとは、性格は正反対だった。「同じB型なのに、どうしてこうも違うか」と思うほどだった。
けれども、いま振り返ると、価値観ということでは共通する部分が多かった気がする。彼女に影響を受けていた部分も多々あったような気がする。彼女のふるまいや発した言葉が、半世紀近くも一緒に暮らしているあいだに、無意識のうちに私の思考と行動の一部をかたちづくることになったのではないか──そんな感じがするのだ。
それが夫婦というものなのかもしれない。その意味で、彼女は私のなかでいまだ生き続けている。死ぬまで私は彼女とともに生きていくのだろう。
そこで本稿では、生前、沙知代が発した言葉を思い出しながら、老年を迎えてからのひとり暮らしも「それほど悪くない」と思える日々を過ごすために、必要だと私が感じていることを述べておきたい。私と同じような「なにもできない夫」を持つ女性や、「母親に先立たれたら生気をなくしそうな父親」を持つ方々にも、参考になる部分もあるのではないかと思う。