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長宗我部元親、四国に蓋をする!~織田信長が瞠目した怒涛の進撃

秋月達郎(作家)

2010年11月11日 公開 2022年12月22日 更新

「機だ」凄まじかりける争ひ

こうした元親の膨張ぶりに驚愕したのは、なにも、阿讃予の3国に勢力を扶植(ふしょく)していた三好康長、十河存保(そごうまさやす)、河野通直、西園寺左衛門太夫などといった大小名だけではない。かつて元親を低く値踏みした信長もまた瞠目した。

だけでなく、懸念すらおぼえた。このまま肥大させてしまっては厄介なことになるという懸念だが、こうなると信長は行動が早い。

『両葉去らざれば将に斧柯(ふか)を用いんとす。急ぎ、征伐すべし。』

この言葉は『六韜』の「守土」にある。双葉のうちに摘み取っておかねば大木となってから斧を用いなければならなくなる、つまり、災いは早いうちに処置しておかねば面倒なことになってしまうという意味のことわざであるが、信長の眼に元親は大きく成育しつつある双葉に見えたのだろう。

信長は、動いた。和を乞うてきた阿波の三好康長や十河存保などを救援すべく、息子の信孝をして一大遠征軍を編成させ、阿波への渡海準備に入らせたのである。

ところが、これは天正10年(1582)も4月下旬のことで、泉州岸和田に着降した信孝がいざ軍船へ乗り込もうとした6月3日の夜、京都から驚くべき報せが届いた。

『惟任日向守反逆を企て、信長公御生害を遂げられ候。』

この信じられないような展開によって、元親は救われた。誰もが夢の欠片(かけら)にすらおもわなかった事態により、元親による「四国平定」の大障壁が無くなってしまったのである。

「機(しお)だ」 元親は一宮高賀茂の社に詣で、卯の花鍼(おどし)の鎧一領と金作りの太刀を納めて決戦の勝利を祈願し、天正10年8月26日、阿波の黒田原へと打ち掛でた。

ひきいる軍勢は2万3千余騎と伝えられる。ひるがえって阿波の三好勢は、十河存保ひきいる5千余騎と三好備前守ひきいる2千余騎であったという。両者は四国の覇権を賭け、阿波の中富川で激突した。

長宗我部勢の先手となったのは元親の弟、香宗我部親泰である。親泰は水煙を立てて川へ乗り入り、三好備前と火花を散らして戦った。が、なかなかに勝敗は見えず、ついに元親の本軍が渕瀬(ふちせ)へ打ち入り、向こう岸まで駈け上がった。このときの情景を、のちの土佐山内藩の馬廻り記録方・吉田孝世は、このように書き記している。

『互ひに数千挺の弓鉄砲を放しかけ、惣(そう)軍勢の罵る声、馬の馳せ違ふ音、太刀の鍔音、山川に響き渡り、いかなる修羅の闘諍もこれには過ぎじと夥し。敵味方入り乱れ、手負い死人をかえりみず、両虎二竜の闘ひなれば、この軍いつ果つべきとも見えざりけり。』

まさに「凄まじかりける争ひ」だった。しかし、兵数の差は徐々に三好方を圧迫し、ついにはさしもの三好勢も勢いを挫かれ、右往左往に乱れ、散り散りになって敗走した。

存保も、逃げた。かれらの退きあげていった先は阿波東端の勝瑞城であるが、このおり、存保は城下の家々に火をかけて残さず焼き払い、一望の広野にしたうえで長宗我部勢をまちかまえたという。

これに対して元親は、真正面から城をひたひたと取り巻き、井楼を組み、柵をめぐらせ、篝火(かがりび)を焚き、数千挺の鉄炮を打ち立てた。その迫力たるや天地をゆるがすような百千の雷が一度に落ちかかるほどだったという。さらには紀州からは雑賀衆が2千余、元親ひきいる寄せ手にくわわってきた。吉田孝世は、また記している。

『かくて惣軍城を取り巻き、持楯、掻楯、亀の甲、突き寄せ突き寄せ、夜昼の境なく弓を射入れ鉄砲を連るべ、喚き叫んで攻めにけり。』

このような最中の9月5日、にわかに空が掻き曇って小雨が降り出した。雨は日暮れに及んで激しさを増し、暴風が起こって砂石を飛ばし、やがて車軸を流すほどの甚だしさとなった。城は水攻めを受けたような状態となり、戦意は憐れなほどに低下した。

存保が元親のもとまで使いを立てて、「味方既に勢も尽き候程に、城を明け讃州へ立ち退き候べし。道筋を申し請け給はるべし」と申し送ってきたのは、無理からぬことだったろう。こうした存保の虫のよい申し出に対して、一領具足たちは声をそろえ、退路など開いてやらず即刻討ち取るべきだと主張したが、元親は自信に満ちてこのようにこたえたという。

「阿波も讃岐も平かにしてしまえば、存保も降参するしかあるまい」

以後、元親は、信長の後継者・秀吉と敵対した東海の家康との連携をふかめつつ、四国制覇をおしすすめていった。

元親が四国の統一を果たしたのは天正13年(1585)、小牧長久手の戦いが終わった頃である。このとき、元親は、すぐさま淡路から尾張へ向けて兵をさしむけようとした。家康と結んで秀吉を挟撃すれば、まちがいなく勝利は得られる。 だが、わずかに10日、遅かった。

すでに家康と秀吉は和睦してしまっていた。そればかりか、秀吉は信長の遺志を継ぎ、圧倒的な兵力を四国へと差し向けてきた。

白地の城に籠もった元親が、四国の蓋から土佐の蓋へと引き摺り下ろされるのは、それからわずかのちのことである。

 

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