
精神科医の斎藤学さんによれば、マザコンは母と息子だけではなく"母と娘"にも多く見られるのだそう。仕事をバリバリこなし、一見自立してそうな女性であっても、母親の存在がその人生観に大きな影響を及ぼしているケースも少なくないとか。
斉藤さんの著書『インナーマザー』では、親子関係の歪みがもたらす弊害について解説されています。本稿では、母との関係が娘の人生を左右する理由について紹介します。
※本稿は、斎藤学著『インナーマザー』(大和書房)より、内容を一部抜粋・編集したものです
マザコン息子より問題なマザコン娘
かつて「冬彦さん」という言葉がテレビドラマの影響で大流行しました。マザー・コンプレックス、いわゆる「マザコン」傾向のある男性をそう呼んだわけです(今も「冬彦さん」は消滅したわけではなく、脈々と生き続けているのですが)。
母親との密着度が非常に高い息子が、母親という殻からから脱皮できないまま大人になってしまい、分離できずにいる状態なのですが、母親もまた、いつまでも息子から離れることができず、あれやこれやと世話をやき続けます。
けれども男性だけがマザコンになるのかというと、そうとは限りません。昔からあったものですが、最近になってとくに注目され始めたのが、母親と娘の密着関係です。これは、母親と息子の関係以上に考えなければならない問題です。
母親と息子は異性ですが、母親と娘は同性です。同性の子ども、つまり娘というのは、母親にとっては息子以上に心理的な距離を取りにくく、密着関係を打ち破る緊張が生まれにくいもののようです。
娘を自分の身体の一部のように感じ、あるいは分身化し、自分と同様の感じ方や考え方を抱くのが当たり前だと思う母親、夫への愚痴を娘にたれ流し、自分の感情を共有させようとする母親がどれだけ多いことか。
夫への不満は夫婦間の問題なわけですから、直接当人にぶつければよいのですが、ぶつけたところで夫のほうは面と向かって受け止める力がない。結局、娘という自分の分身に妻の役割という自分の世界を被かぶせてしまっているのです。
これでは、親は親で大人の世界を築き、子どもは子どもで自分の世界を築くことができず、親が子どもの世界に侵入する親子未分化な世界ができあがってしまいます。
「お父さんにも困ったものよ。お母さんはずっとこんなに苦労してきたのよ」と娘に訴える「不幸な母親」を、「良い子」で「やさしい娘」は、「お母さんはかわいそう」と思うようになります。
父親は仕事、仕事でいつも家におらず、いても存在感がなく、いないのと同じです。いつの間にか仲間はずれのように孤立してしまっています。母親のパートナーは父親のはずなのに、二人は互いに話相手にならないわけです。
そのうち、母親の「カウンセラー」として話を聞いては慰め、ときには一緒になって父親を攻撃してくれる娘ができあがり、母娘の密着度はますます高まっていきます。
互いの人生を食い合う「一卵性母娘」
彼女たちは、一緒に買い物や旅行に行ったり、服やバッグを共有したり、ものの考え方や価値観もそっくりな、友だちのような仲良し母娘関係を築き上げます。仲良しなのが悪いわけではありませんが、この関係から離れて自分の世界をつくり、広げていくことができなければ、お互いの人生を食い合う関係になってしまいます。
学校でも母親より親しい友人ができない。ボーイフレンドのこともいちいち報告し、恋愛相談も友人ではなく母親にする。職場の人間関係がうまくいかないといっては母親に訴え、「そんな会社なんか辞めてしまいなさい」といわれればすぐに辞めてしまう。
こうした娘たちは母親とのべったりと密着した狭い世界の中で生きているのです。私はこのような親子を「母娘のカプセル」と呼んでいます。母親と娘で一つのカプセルに入っていて、外の世界に出ていけないのです。
生まれたばかりの乳児にとっては、母親以外の世界は存在しません。そこでは母子カプセルは当たり前であり、かつ必要なものです。子どもは通常、成長していくにしたがって自分の世界をつくり始め、母子カプセルから自然に分離していきます。
けれども、夫との関係に満足していない寂しい母親は、子どもをなかなか手放さなくなります。いつまでも自分の思いどおりになる「お人形」にしておこうとするのです。「一卵性母娘」と呼びたいような母娘は、私のクリニックにもたくさん現れます。
母親の願望を満たす健気な娘
一見、さっそうとして自立したキャリアウーマンを演じながら、やはり母娘カプセルの中で生きている娘たちもいます。
現代の30代前後の女性たちの母親は、ちょうど女性の生き方が変わり始めた頃に青春を生きてきました。それまでの女性は、家のため、子どものために生きることが当たり前で、たいした疑問は出てこなかったのです。ところが、今では、多くの女性が大学に進学するようになり、職業を持ち、自由恋愛で夫を選ぶようになりました。
フェミニズム運動が盛んになり、女性も自分自身の目標を持って「自立」して生きていくことが奨励されました。けれども、彼女たちの親の世代は、夫につくし、子どもにつくす、伝統的な妻・母親の役割を当然と思っている世代です。
そこで彼女たちは、一方では社会で自分の能力を発揮することを理想とし、もう一方では伝統的な女性の役割を果たすことが当然のように期待される、という迷いの中に置かれました。
多くの女性たちは、結婚して妻・母親の役割をとったのですが、一時期は社会である程度までがんばった人たちです。夫のために夕飯をつくって待ち、夫の転勤とともに地方を転々とし、夫と子どものためにつくして、それでも経済的には「養われている」専業主婦という身の上に疑問を感じたのは当然だったでしょう。
こういう主婦の中から「キッチンドリンカー」が生まれました。彼女たちは、自分の生活の空虚さに気づき、その寂しさを埋めようとアルコールにおぼれたのです。
キッチンドリンカーにならなかった母親たちもまた、家庭内に緊張を生み出しました。彼女たちは、その空虚感や抑うつの責任を夫にとってもらおうとしたのです。
「なぜ、私だけが家の中でこんなつまらないことをしていなければならないの?」「あのとき結婚していなければ、私ももっとキャリアを追求できたのに」と、夫に怒りを向けました。
夫のほうは、こうした妻たちの気持ちが理解できず、家で楽に生きている(ように夫たちには見える)くせに、疲れて帰ってきた自分に愚痴をいう妻がうっとうしい。
そこで無視したりほったらかしにしたり、妻から逃げて外で遊んだり、怒鳴りつけて黙らせたり、男がどんなにたいへんか、「女の甘さ」を説教してすまそうとしました。
夫と面と向かってコミュニケーションすることをあきらめた妻たちは、娘を味方につけようとし、娘に「不幸な人生」の愚痴をいい、人生相談するようになったのです。
ここから、今まで述べてきたような母娘カプセルが生まれるのですが、この娘たちの中には、母親が夢見て果たせなかった社会的野心を、代わりに果たしてやろうという健気な娘も生まれてきました。
母親たちの時代には考えられなかったような職種が、現代の女性たちには開かれています。以前に比べれば女性の昇進も多くなり、華やかな独身のキャリアウーマンとしてがんばる女性たちが増えています。
こうした女性たちの中には、「不幸な」母親の愚痴を聞いて育ち、「私は、家の中だけに縛られて、あんなふうになるのはイヤだ」と、母親の生き方への反発から仕事をしている人も多いでしょう。
彼女たちは、母親の無意識の願望を満たしているので、母親たちも娘のさっそうとした姿を見ることがうれしいのです。世間向けには、「うちの娘も、いつまでも仕事、仕事で結婚もしないで困ったもので」などといってみせながら、内心、さほど娘に結婚してほしいとも思っていない母親も多いのではないでしょうか。
娘たちは、自立したキャリアウーマンでなければならない一方で、母親の望みであるキャリアウーマンであり続けるという依存関係のカプセルからは脱けられない。彼女たちもまた、本当に「自分自身のため」の人生を生きているとはいえないのです。
このような娘たちが社会でいきづまって母親の願望を満たせなくなってきたとき、過食症・拒食症などの摂食障害が起こったりします。こうした病気も、カプセルにひびを入れる、カプセルはずしの一環なのです。