
病気やケガ、自然災害、介護や人間関係、お金のこと、常に私たちの中にある不安や悩み。その消極的解決法の一つ「合理化」について早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏に解説して頂く。
※本稿は、加藤諦三著『不安をしずめる心理学』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
何をしたいか分からない人が消極的解決を選ぶ
不安には、消極的な解決と積極的な解決があります。
積極的な解決ができればそれに越したことはないのですが、なかなかそうもいかないこともあるでしょう。
多くの人は積極的解決ではなく、消極的解決を選びます。不安と向き合って不安を乗り越えるよりも、不安から逃げて、不安を一時的に自分の意識から消去する方法を選ぶのです。
一時的に不安な思いから逃れることはできますが、その場しのぎや、回避に終始することは解決法としてやはり正しくありません。
不安の消極的解決には、カレン・ホルナイのいう四つの方法があります。
1.合理化する――rationalize it
2.否定する――deny it
3.不安になるような場所から逃げる――escaping anxiety
4.依存症――narcotize it
この四つの方法に共通しているのは、自分が「何をしたいか」ということが分かっていないという点です。
消極的な解決を選択する人も、当初は不安を乗り越えようと努力はしたはずです。
しかし努力の方向が間違っているので、自分が何をしたいのか分からなかったのでしょう。その結果、不安から逃げてしまうのです。
ここでは、そんな選択しがちな消極的な解決として、これらの四つの方法のうち、合理化について考えていきます。
「自分は子どもをしつけているのだ」
「合理化する」というのは、感情的に自分の子どもを殴ってしまったという場合に、あるいはもっとひどい場合は子どもを虐待しておきながら、子どもを「しつけている」と言い訳をすることです。表現されない憎しみが、愛情や正義の仮面をつけて登場してくるのです。
このような場合こそ、「なぜ、自分の子どもとの関係はこうなのだろう?」と、自分のパーソナリティーを健全なものに変えていくチャンスなのですが、「自分は子どもをしつけているのだ」というふうに合理化してしまうと、問題の核心に向かっていくことができません。
自分の本当の感情を、まったく分かっていないのが神経症的不安でした。
何か起きた時、どのような情動が生じるかには、その人の過去が影響しています。一方で、その事実にどのように対処するか、その結果生じた情動にどのように対処するかは、当事者のパーソナリティーの問題です。
親子関係ばかりではありません。例えば、受験生が「受験勉強が嫌だ」と本心が打ち明けられない場合です。それが言えれば、自分のパーソナリティーに何か具合の悪いことが起きている警告として建設的に処理できる。
しかし、「受験勉強が嫌だ」と言わずに、友人には「お前、何のために生きているのだ?何のために生きているかも分からないのに、受験勉強なんかしたって意味がないだろう」。あるいは、「受験勉強なんて、くだらない」などの言い方をして、合理化してしまうのです。
本心が言えず、意識することもできない。「受験勉強が嫌だ」ということを認められず、自分の敗北を認めようとしないのです。
失敗が嫌なだけ
あるいは、何か失敗した時に「失敗はいいことだ」と言うのもそうです。
一般的に「失敗はいいことだ」と言われますが、それは何がいいことなのか分かっていて、自分の再生への道を探ることができている場合に限ります。
「こうした内面的要因の発見が、より新しい洞察力を持った魂をつくる。」(『心の悩みがとれる』』デヴィッド・シーベリー〈著〉、加藤諦三〈訳〉、三笠書房、94頁)
不安の消極的解決を拒否することが、不安の積極的解決に通じるということなのです。
「失敗はいいことだ」と言いながら、何がいいことか分かっていないまま、そう言って逃げている。失敗した時に不満になる、失望する、やる気を失うなど、それらの心理を追究して、そこから自分の再生への道を探ることで初めて失敗は生きてきます。
「失敗が嫌で仕方がない」「失敗するかもしれないと不安で仕方がない」。そうした気持ちを正面から見つめ、そこに自分の生き方の基本的な間違いがないかどうか目をこらすことで、本当の出口が見つかるのです。
ところが失敗を合理化する人は、「失敗はいいことだ」という解釈で逃げてしまう。私も「失敗を喜べ」ということを本に書いたことはありますが、それは失敗をそのままにしていいという意味ではありません。
失敗から逃げない時に、失敗が良い経験になるということです。
例えば、新しい仕事を始めたい場合、本当は臆病で始められないのに「家族にリスクを負わせるし、妻にも迷惑がかかるから」というような言い方をする。自分が臆病で不安だから離婚しないのに、「子どものために、離婚をしない」と合理化する。
あるいは、子どもの教育でどのように指導していいか分からないので、「子どもの自由にさせています」と言う。
どのように指導していいのか分からないのであれば、その事実をまず認める。自分は親になる心理的成長ができていないということに気づき、課題として乗り越えていけばいいのです。
それなのに、どのように指導していいか分からないという事実を、「子どもの自由にさせている」と言い換える合理化は、いわば意識のブロックです。
「子どもに任せる」ということは噓で、親が対応できないというのが本当です。
「子どもの自由にさせています。子どもは自由が一番」と言うのは、対処できないことへの合理化です。子どもが不登校になった時にも、そういう言い方は可能です。
つまり、自分と自分の子どもとのコミュニケーションがうまくいかなかったからではなく、友達や学校に原因を求めます。不登校の原因を、外に置き換えるのです。
つまり合理化は、悩みの核心に入っていかないようにするブロックです。
人は不安になればなるほど、現状にしがみつきます。現状にしがみつき、他の理由を見つけてきて自分の言うことを合理化してしまうのです。
愛情飢餓感から子どもに接しているのに、子煩悩と合理化する。あるいは、マザコンを親孝行と合理化する。いずれも代償的満足を求めているだけです。
依存的関係を愛情関係と合理化しているのです。
他に原因を見つけて目を逸らす、単なる言い訳
合理化は不安の客観化です。
外側に不安の種を探して、本当の自分の心を見ていないということです。ですから、本質的な解決にはなり得ません。合理化を続けていると、自分の内面が弱くなります。
そして、内面が弱くなればなるほど、合理化に逃げることが多くなります。
そのようにして合理化によって心の葛藤から逃避し続けていると、ますます不安になり、現実に耐えられなくなります。
合理化のたびに無意識の領域で起きていることは、内面的強さの掘り崩しです。合理化をしている人は、無意識の領域で大きなコストを払っているのです。
合理化することでその場は心理的に楽になり、意識の上では何事もなくなる。その日は過ぎていきますが、本人にとっては必ずしも望ましいことではありません。
「娘夫婦が不仲で、将来が心配」という相談を受けることがあります。しかし、実際はというと、娘夫婦は仲が良かったりします。この相談者が、もっと娘夫婦に構ってもらいたいだけなのです。
だから「娘夫婦のことは、放っておきなさい」とアドバイスをすると、「親が子どものことを心配するのは悪いことですか!」と怒り出します。これも、親が子どもを心配するのは良いことであるという合理化です。
いずれも合理化、不安の客観化です。外側に不安の種を探し、見つからない時には自分で作り出すのです。
自分の身勝手を「私は苦しい」と言って、合理化する人もいます。「私はこんなに苦しいから、これが許される」という言い訳です。
合理化についてもう一つ大切なことは、その人の内面の弱さと正比例するということです。内面的に弱ければ弱いほど、合理化が多くなります。あれこれと理屈をつけて、合理化を図ろうとするのです。
「あの時にお前がああしていなければ、こんなことにはならなかった」と言い張って、「自分は素晴らしい」という感情的土台の上に理屈を体系づけます。
いずれにしても合理化が内面を弱くするものだというのが、大切なポイントです。いわば悪魔が神の仮面をかぶって登場するのが合理化で、合理化はパーソナリティー発達の停止を意味します。