日露開戦・勝利をつかんだ「明治人の原点」
2014年10月03日 公開 2024年12月16日 更新
《『歴史街道』2014年10月号より》
巨大な敵を前に、日本人が「一致協力」で描いたグランドデザイン
「ロシアは野蛮で何をするかわからない」
「日本の独立自主を守るためにはどうすべきか」…。江戸後期から日本人が抱いた危機感は明治にも持続され、「富国強兵」をもって脅威に対抗しようと努めた。
そして危機がいよいよ現実のものとなった時、海軍の山本権兵衛らは「六・六艦隊構想」、三笠獲得を実現。参謀次長急逝に見舞われた陸軍を、児玉源太郎が救う。
この「一致協力」こそ、明治人の奇跡の原点たった。
グランドデザインの背景
日清戦争の講和条約調印から六日後の明治28年(1895)4月23日、ロシア、フランス、ドイツが「東洋の平和に禍根を残す」という理由で、遼東半島の還付を日本に勧告してきた。「三国干渉」である。結果、遼東半島は清国に返還され、3年後にロシアが租借。日本人は憤慨すると同時に、江戸時代後期に生じた、「オロシャ(ロシア)、恐いよ」が、再び意識されるようになった。
文化3年(1806)から同4年(1807)にかけて、ロシアの二コライ・レザノフが樺太・択捉で砲撃したり略奪したりする事件が起こった。この蛮行が「露寇」という言葉(蒙古襲来の「元寇」にひっかけている)とともに、
――ロシアは野蛮で何をするかわからない。
という認識を全国に拡散させ、日本人の国家・国境・国防意識を育てた。
この感覚を明治維新後も鮮明に持続し、「日本の独立自主を守るにはどうすればいいのか」「何をすればロシアに対抗できるのか」という肌感覚の危機意識とともに、現実的に対処法を考えたことこそ、明治人の特筆すべき点であった。
ロシアの脅威に対するグランドデザインを一言でいうならば、「富国強兵」である。「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、国民が一体となって国力増強に走り出した。
中心は、やはり陸海軍の「強兵」の話だが、まずはその背景となった「富国」を簡単に紹介しよう。「富国」の基盤となるのは、産業の整備である。それまでは工業といっても軽工業が主体だったが、重工業の施設が新たに加えられた。明治34年(1901)に八幡製鉄所が操業を開始し、やがて大砲を造るための鋼材を生産する八幡製鋼所、そして呉海軍工廠製鋼所が創設されている。
ちなみに明治時代の日本で代表的な輸出品は生糸である。ユネスコの世界遺産に登録されて話題になった富岡製糸場は明治初期に建てられ、明治の半ばに民間に払い下げられたが、生糸や絹を売って軍艦を買ったといえるほど繊維産業は重要であった。ほかに麦わらの筵なども輸出品の1つとして挙げられるが、その程度の日本が重工業を立ち上げて「富国」を達成するのには時間がかかる。しかし「恐ろしいロシア」の脅威に直面する以上、「強兵」の方は待ったなしの課題であった。
海軍が描いた壮大なプラン
帝国主義の時代においては、軍事力なくして国を守ることはできない。海に囲まれている日本の場合、まず海軍力が重要になる。その海軍力増強の根幹を築き、「海軍の父」とまで謳われたのが山本権兵衛だ。
明治29年(1896)、山本は当時の西郷従道海相に呼ばれ、ある命令を受けた。
――海軍がこれから進むべき道を示し、かつ実行策を立案せよ。
日清戦争から僅か1年ほど後のことであるが、精強バルチック艦隊を擁するロシアを仮想敵国とするならば、安閑としている暇はない。先に述べた三国干渉もあり、海軍は大きな焦燥感に駆られていた。
この時、山本が発案したのが「六・六艦隊構想」と呼ばれるものだ。
10年間の長期計画により、戦艦6隻、巡洋艦6隻を揃え、その他の艦艇を含めると、合計で109隻、20万2690トンを整備するという壮大なプランであった。後の日本海海戦の奇跡の勝利を遂げた連合艦隊の主力は、この構想の中で産声を上げる。山本の慧眼が窺えるとともに、確固たる信念を持って海軍発展のグランドデザインを描いた彼こそ、「日本海海戦勝利の真の立役者」と言っても過言ではないだろう。
さらに1つ、山本の逸話を紹介しよう。明治31年(1898)、山本は大きな問題に直面する。イギリスのヴィッカース社と契約した戦艦三笠の建造が、予算不足により暗礁に乗り上げたのだ。三笠は言うまでもなく、連合艦隊の旗艦となる最新鋭の戦艦である。その存在が日本海軍の象徴になったことを思うと、まさしく国運を左右する問題だった。
山本が相談を持ちかけたのが、西郷従道だった。当時、西郷は内務大臣を務めていたが、事情を聞き、
「お国の大事ではなかか…」
と声を上げ、仔細は気にせずに直ぐ手付け金を支払うよう山本に命じた。驚くべきことに西郷は、他の予算を流用してでも支払うよう告げたという。もちろん、憲法違反である。
「咎められた時は、2人で二重橋前で腹を切りもんそ。それで三笠が完成するならば本望ではなかか」
山本は、力強く頷いた。西郷と山本の強い信頼関係と、2人がいかに国を想っていたかが、ひしひしと伝わってくる。
東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したことも、山本の大きな功績だ。明治36年(1903)10月――日露開戦の直前のことである。起用理由を尋ねられた際の「東郷は運がいい男ですから」という山本の言葉は有名だが、実はこの時、常備艦隊司令長官を務めていた同期の日高壮之丞に「俺を辞めさせるならば、今ここで俺を刺し殺せ」と猛反発を受けている。それでも山本は、国家の大事のための決断であることを諄々と語り、納得した日高は、将官会議で自ら東郷起用への支持を表明したという。
話を戻そう。「六・六艦隊構想」によって艦艇を増やせば、当然、人員が必要になる。海軍は1万5000人から4万800人へと2万5800人の増員を図った。また、明治26年(1893)に50名から100名へ増やした海軍兵学校の定員を、明治28年からは200名へと再び倍増させた。こうした士官の育成に加えて、明治30年(1897)頃、秋山真之がアメリカ、広瀬武夫がロシア、財部彪がイギリス、村上格一がフランス、林三子雄がドイツと、中堅クラスを次々と留学に送り出している。
さらには、日本独自の「味つけ」がなされた戦術・戦法の開発が進められた。たとえば新しい戦術として、「公算射撃」が採用されている。それまでは大砲一門ずつ、各々狙いをつけて撃っていたが、公算射撃はまず一門が撃って距離を測り、他の大砲はそれをもとにして一斉に撃つ(斉射)というやり方である。これは日露戦争で日本海軍が世界で初めて実施することになる。