「子曰く...」なぜ『論語』は2000年経った今も読み継がれているのか
2011年10月01日 公開 2022年12月27日 更新
『論語』には人生に、暮らしに役立つ知恵がいっぱい詰まっています。それが二千年もの長きにわたり、読み継がれてきた所以です。これから『論語』を学ぶ子供たちも、学生時代に学んだ大人も今いちど、『論語』の世界に触れてみませんか。
※本稿は『月刊 PHP』2010年10月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
『論語』はむずかしくなんかない
ここ数年『論語』は日本でも中国でもブームになっていますが、その一方で難しいと言われたり、古くさいお説教の本だと思われて敬遠されてもいます。
正直言って私も高校生時代に『論語』を手にした時には、最後まで読み通せませんでした。
初心者が読み通せない理由は幾つかあるでしょうが、「原文」と「書き下し文」と「口語訳」のすべてを隅から隅まで読もうと張り切り過ぎるのが一番の原因ではないでしょうか。
『論語』は孔子(こうし)が子供や孫くらいも歳の離れた弟子たちに与えたアドバイスですから、自分にとって役立ちそうなところを拾い読みすればよいのです。
内容は十巻二十篇あると言うと、ものすごいボリュームを想像するかもしれませんが、孔子の言葉を中心に、五百余りの短文が並んでいるだけです。短いものは「席不正不坐」と漢字がたった五つです。
これを「書き下し文」にすると「席正しからざれば坐せず」と長ったらしくなり、難しくも感じられるでしょう。
でも、「席に着く時には椅子や座布団をちょっと整えてから座ると見た目が美しいよ」と口語訳だけを読めば「なるほどなァ」と納得できるでしょう。
しかしこれを「目上の人が上座になるように着席しなくてはならない」と訳すと、堅苦しい礼儀作法のマニュアル本のように思えてきます。こうした堅い訳が『論語』を読み適せない第二の原因でしょう。
本来は前の意味なのですが、『論語』はさまざまに訳せてしまうのです。すると「いったいどっちを覚えたらいいんだ」と迷う人がいます。一つの文章に訳が幾つもあるというのが『論語』を読み通せない第三の原因のようです。
実はどちらでもよいのです。『論語』は中国では「科挙」という国家公務員試験の受験科目でしたから一つの意味に統一されてきましたが、日本では江戸時代になると自由に読まれるようになり、今ではそれが中国の『論語』の現代語訳に大きな影響を与えているのです。
孔子の言葉をどうとらえるかは、読者の数だけあってよいのですから、これを機会にみなさんも自分独自の訳を創(つく)るつもりで 『論語』を読んでみてはいかがでしょうか。