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なぜ千尋だけはカオナシに呑み込まれなかったのか?~『千と千尋の神隠し』で哲学する

小川仁志(哲学者/山口大学教授)

2017年07月07日 公開 2024年12月16日 更新

なぜ千尋だけはカオナシに呑み込まれなかったのか?~『千と千尋の神隠し』で哲学する

イラスト:浮雲宇一
 

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“欲望″とは何か?

欲望とは厄介な存在です。それがないと人間は成長しないわけですが、逆に欲望のせいで苦しむはめになる。成長することを運命づけられた人間は、ある意味で欲望の塊です。その業ごうから逃れることはできません。ただ、欲望を抑えることは可能です。本能としての欲望を抑えるということです。

ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、欲望を抑えることができるところに人間の本質があるといいます。それができないのは、人間以外の動物です。豚は欲望に負けて、お腹がすけば人のものでも食べてしまいます。

千尋の親は神様の食事をむさぼり、豚になってしまったのです。もともと彼女の親は欲望の塊のような人たちでした。母親は田舎だと買い物が不便になることを嘆いていましたし、父親は変わった建物があったら入りたい、いい匂いがしたら食べたいというふうに、欲望のままに生きているような人です。

『千と千尋の神隠し』には、人間以外にもそんな欲望の塊のようなキャラクターがたくさん出てきます。守銭奴のような湯婆婆、赤ちゃんの欲望そのままの坊、そして金に目がない油屋の従業員たち。極めつけは、なんでも呑のみ込んでしまうカオナシです。

カオナシは、欲望の象徴といっていいでしょう。なにしろ、一つを手に入れるとまた次が欲しくなり、それがどんどん加速していくのですから。従業員まで呑み込んで、巨大化するカオナシ。彼は、金さえ与えれば、なんでも手に入ると思っています。

ところが、千だけは金になんの興味も示しません。カオナシにとって、それは究極の自己否定なのです。だから荒れ狂います。

千は金が欲しかったのではなく、親を元通りにして、元の世界に戻りたかったのです。金を差し出して詰め寄るカオナシに、千はこういってのけます。「私が欲しいものは、あなたには絶対出せない」と。

たしかに千が欲しかったのは、元の生活ですから、それはカオナシには出すことはできないでしょう。もう少し厳密にいうと、千はただ単に元通りになればそれでいいと思っていたのではなさそうです。

おそらく千自身もはっきりと自覚していたわけではないと思いますが、彼女が本当に欲しかったのは、もっとしっかりとした自分、つまり元の生活以上のものだったのではないでしょうか。

それは自分次第なので、人にはどうすることもできません。ましてやカオナシは欲望の象徴です。千の求めるもっとしっかりとした自分は、まさにそんな欲望を克服した姿にほかならないのです。だから「あなたには絶対出せない」といったのではないでしょうか。

千につきまとってきたカオナシは、千の中に潜む欲望の影でもあり、それと決別するためには激しい痛みと苦しみを伴います。しかし、その痛みと苦しみを乗り越えることができたときはじめて、千はカオナシに別れを告げ、真の意味での成長を遂げることができるのです。欲望によってもたらされた成長は、まだ本当の意味での成長ではないからです。

沼の底から生還した千は、もう前の千とは違っていました。自分の顔を持ち、自分の名前を持った一人の人間になっていました。真実を自分の目で見極めることのできる人間です。居並ぶ豚の中に自分の両親がいないことを見分けることができたのも、そのおかげです。

「欲望」とは自分の中に潜む怪物です。それを飼いならすためには、痛みと苦しみに耐えなければなりません。私たちが『千と千尋の神隠し』から学ぶことのできる大事な教訓の一つです。

※本記事は、小川仁志著『ジブリアニメで哲学する』(PHP文庫)から一部を抜粋編集したものです。

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