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長州男児の肝っ玉・高杉晋作の功山寺挙兵

2015年08月03日 公開

歴史街道編集部

元治元年(1864)12月、雪の舞う長府・功山寺で、高杉晋作が萩政府を倒すべく、一か八かの賭けに出ました。

「従う者は僅かでも、いや、たとえ自分一人だけでもやる」。その高杉の気迫が、幕末の長州に奇跡を起こします。今回は高杉の功山寺挙兵をご紹介してみます。
 

一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義

元治元年(1864)、禁門の変、四カ国連合艦隊の襲撃と、敗北続きの長州藩では、それまで藩をリードしてきた急進派が力を失い、藩の要職に旧来の派閥が返り咲きます。いわゆる俗論党で、その中心が椋梨藤太でした。

幕府に対する恭順しか、長州藩が生き残るすべはないと考える椋梨らは、幕府による長州征伐の軍勢が迫る中、政敵の周布政之助を失脚させると、禁門の変で指揮を執った三家老を切腹させ、幕府に謝罪。

次いで急進派の面々を捕えると野山獄に入れ、後に粛清することになります。「甲子殉難十一烈士」と呼ばれる人々で、その中には吉田松陰に兵法を教えた山田亦介や、小田村伊之助の兄・松島剛蔵も含まれていました。小田村自身も椋梨に睨まれ、投獄されています。

さらに奇兵隊や諸隊(奇兵隊同様、正規軍ではない諸部隊)には解散命令が下されます。要は幕府に対し、「まったく抵抗する気はありません。過激分子はすでに藩で処罰しました、どうか寛大な御処分を」という体裁をとったわけです。

萩の自宅に閉居中であった高杉晋作は身の危険を感じ、すでに密かに藩を脱出、九州に亡命していました。晋作は「谷梅之助」の変名で福岡に逃れ、女流勤王歌人として知られた野村望東尼〈ぼうとうに〉の平尾山荘に潜伏します。

しかし急進派の人物が片っ端から捕えられ、さらに奇兵隊をはじめとする諸隊が解散を迫られていることを知ると、藩政府を倒す以外に長州を救う道はないと考え、命がけの挙兵を決意して、11月15日、晋作は下関に戻りました。

晋作は、当時長府に集結していた奇兵隊をはじめとする諸隊に、決起を説いて回りました。しかし奇兵隊総管・赤禰武人や軍監・山県狂介をはじめ、諸隊の幹部で積極的に同調する者はいません。彼らの意見は、諸隊すべて合わせても兵力は800程度。藩政府を相手に勝算無く、挙兵は時期尚早というものでした。

かつて自分の手で結成した奇兵隊も、今や自分の意のままにはならず、晋作は組織というものの奇妙さに苦笑したかもしれません。とはいえ、あきらめるわけにはいかないのです。

「今、決起して萩の俗論党を倒さなければ、長州は死ぬ。長州が死ねば、松陰先生や久坂や入江や吉田らが捧げた命は、意味を失ってしまうではないか。いや、それどころか幕府を倒し、日の本が生まれ変わる機会も永遠に失われる」。おそらくそんな内容を晋作は説いたはずです。

しかし、人間とは、理屈では命を賭けられないもののようです。依然、沈黙を守る隊の面々に晋作は、「わかった。もはや諸君には頼まない。ただ、馬を一頭貸してくれ。僕は萩へ行く。そして大殿様と殿様をお諫め申し上げて腹を切ろう。萩に向かって一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。今はその時ぞ」

それでも共に起とうという者はなく、面々は席を立ってしまい、残ったのは伊藤俊輔(博文)だけでした。結局、晋作に同調したのは伊藤率いる力士隊30人と、石川小五郎率いる遊撃隊50人弱に、佐世八十郎(前原一誠)を加えた、およそ80人です。

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