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松平春嶽と福井藩が目指した新しい日本~幻となったもう一つの明治維新

2018年03月09日 公開

長尾剛(作家)

松平春嶽
松平春嶽

昨年1月、藩士・由利公正を頼る坂本龍馬の手紙が発見され、さらに松平春嶽が、昨年11月放送のNHKスペシャルドラマで取り上げられるなど、今、注目を浴びている越前福井藩。

明治維新といえば、薩長土肥が取り上げられることが多いが、福井藩こそ、幕末維新における重要な役割を果たしていた──。

時は文久3年(1863)6月。

「皆の者、よう聞いてくれ。もはや、この国難にあっては、一人幕府だけにこの日の本を任せてはおけぬ。さりとて、保身のみを図はかる宮中の公家どもには、なおのこと、この国の危機を救う力などはない。我が越前松平家は、この日の本全土を救うべく決起する。君臣一同、上洛し、我が藩が日の本の国政を掌握する。余は、もはやこの越前には生きて帰らぬ覚悟じゃ。付いてきてくれるか!」

松平春嶽は、城中に集められ平身低頭して居並ぶ藩士たちに向かい、一句一句嚙み締めるようにゆっくりとした口調で、しかし激しく熱情のこもった言葉を投げかけた。
 

幕末、松平春嶽によって見出された2人の英傑

福井藩。

江戸時代、越前(こんにちの福井県嶺北中心部)一帯を治めていた雄藩である。藩主は、越前松平家。親藩にして、御家門(徳川家康の血統の一族)の筆頭である。

幕末動乱の時代、この福井藩を実質的に統治し、御家門として幕政にも積極的に参画していたのが、第16代藩主・松平春嶽(本名、慶永。春嶽は号)であった。

嘉永6年(1853)のペリー艦隊来航をきっかけに、鎖国によって支えられていた徳川幕藩体制260年の泰平は、もろくも崩れ落ちた。あくまで鎖国を堅持し、攘夷(海外勢力を国内から打ち払う姿勢)を貫くか。あるいは200年以上続いた鎖国を解き、開国に踏み出すか。幕府内部は、大いに揺れた。

しかし、時代をよく知る聡明な幕閣は、開国という現実路線に傾いていた。春嶽は当初、攘夷派であった。が、幕府老中筆頭・阿部正弘と語らい、開国こそが日本の生き残る道と悟った。

春嶽は、まさしく名君であった。

独裁的な施政を佳しとせず、凝り固まった朱子学思想にもとらわれず、藩内の優れた人材を、身分の上下を超えて積極的に登用した。

この春嶽によって見出された福井藩の誇る2人の英傑が、橋本左内と由利公正である。

橋本は、幕末史きっての天才である。最新の医学や科学に優れ、語学も堪能で、きわめて合理的な思考の持ち主であった。独自に「ロシアとの通商」さえも視野に入れていた。幕末史にあって、もっとも優れた国際人だったと評してよい。

由利公正は、開明的視野を持つ財務の秀才であった。商人に任せず、藩が率先して福井の特産品である生糸を海外へ輸出する道を開いた。保守派から見ればこの“常識はずれ”とも言える大改革によって、福井藩の財政は、万年赤字の状態から一挙に大幅黒字へと好転した。公正が稼ぎ出したこれらのカネは、あの坂本龍馬の運動資金としても供給されている。

橋本左内と由利公正
《左:橋本左内肖像画(島田墨仙原画)、右:三岡八郎(由利公正)肖像写真。いずれも福井市立郷土歴史博物館蔵》

この2人の才能を大きく引き伸ばしたのは、幕末史にあって希有の経済思想家で経世家であった開明的儒学者の横井小楠である。

横井は、熊本藩士である。が、春嶽は横井の力量を見抜き、再三にわたって横井を福井藩へ招聘し、ついに彼を迎え入れたのだ。

ちなみに、横井を福井藩へ招くよう紹介したのは、当時、尊皇攘夷思想運動のリーダーとして頭角を現わしていた小浜藩士の梅田雲浜という人物である。梅田は生涯、攘夷の思想を曲げなかったが、この国難を乗り切れる人物を見定める眼力に優れ、春嶽と横井を結びつけるという幕末史の大役を果たした。

春嶽、決死の上洛計画 >

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