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朝鮮戦争の「その後」~知っているようで知らない朝鮮半島の事件史

2018年07月30日 公開
2018年07月30日 更新

荒山徹(作家)

板門店
板門店

1953年(昭和28年)7月に休戦協定が調印されて、今年で65年。朝鮮半島は今、新たな歴史を刻もうとしている。しかし、そこに至る道は、決して平坦なものではなかった――。
 

正統性を賭けてのつばぜり合い

金日成(キム・イルソン)vs.李承晩(イ・スンマン)――。

やんぬるかな、武力では決着をつけ得なかった南北の領袖にとって、対決は戦後へと持ち越される。

南北の対峙とは、敢えて時代錯誤を以てすれば南北朝の対立であり、ともに正統性をこそ重んじる朱子学の国の後裔であるからには、対決は朝鮮半島支配の正統性をめぐる戦いとならねばならない。

「その後の朝鮮半島事件史」は、正統性を賭けてのつばぜり合いであり、せめぎ合いであり、そして切磋琢磨の歴史でもあった。

北朝は正統性を、金日成の抗日パルチザン活動におく。ナンバー・ツーだった最大のライバル朴憲永(パク・ホニョン)を米国のスパイとして処刑した金日成は、国家の基盤をなす主体(チュチェ)思想を党会議で提起し、休戦からわずか7年後の1960年(昭和35年)には、南北連邦制を提案する余裕と度量を見せる。

いっぽうの南朝はといえば、これがもう目も当てられないほどの体たらくだった。

大韓民国は、建国の父たる李承晩が上海臨時政府の初代国務総理であったこと、つまり上海臨時政府なる抗日組織を継承するという点に正統性があった。だが大統領としての李承晩は無能かつ残忍な独裁者でしかなく、南朝の政治・経済は不正腐敗を極め、社会は大混乱に陥った。

個々の事例を援(ひ)けば、日本人にはおよそ想像を絶する珍奇、かつ恐怖の事件のオンパレードである。ここでは紙幅の関係で一つのサンプルを提示するにとどめおこう。

休戦の翌年の1954年(昭和29年)、自身の終身大統領をもくろむ李承晩は、国会で憲法改正をはかった。

ところが賛成議員は203議席中の135、必要な3分の2に1人足りない。そこで何と「203の3分の2は136に非ず、正確には135.33ゆえ、四捨五入すれば135席なり」と改憲をゴリ押ししてしまったのである。

世にこれを「四捨五入改憲」というが、こんな珍妙な悲喜劇が堂々とまかり通ってしまう国がどのような状況であったか――他は推して知るべしであろう。

独裁者反対に命を賭けたのは学生たちだった。

1960年4月、彼らは街頭に飛び出しデモ行進に及んだ。市民らも陸続と呼応したデモは、首都ソウルでは10万人を超えて光化門(クァンファムン)広場を埋め尽くす。李承晩退陣を叫び大統領府へと行進する彼らに警官隊が発砲、100人を上回る死者が出た。全国集計では200人近くにのぼったという。

このような流血の惨事を経て、追いつめられた李承晩はついに下野し、アメリカへと亡命するのだった。

四月学生革命、もしくは四・一九革命と呼ばれるこの義挙は、二つの意義を有する。

一つには、邪しき大統領を街頭デモで駆逐した成功体験が、かの国の“民主主義”の雛型、流儀となったことだ。

しかし、もっと重要なのは、追放したのが他ならぬ建国の父その人であったことだろう。「父殺し」を犯したことにより、上海臨時政府を継承するという自らの正統性までが失われてしまった。

韓国の漂流は、これを以て始まる。
 

南のクーデタ、北のコマンド部隊

翌61年(昭和36年)5月、陸軍少将朴正煕(パク・チョンヒ)をリーダーとする青年将校グループがクーデタを起こし、権力を掌握する。

彼らが傲然と翻したのは反共という旗印だった。ここに大韓民国の正統性――というか存立理由は反共となった。反共ゆえに国あり、である。

南に強力な軍事政権が誕生したことは、とりもなおさず北にとって脅威以外の何物でもない。

――朴正煕の首を獲れ!

金日成の密命を受けた31人の刺客がソウルに潜入した。大統領府の青瓦台(チョンワデ)へとわずか500メートルの至近に迫った時、その正体が露見し、北朝のコマンド部隊はソウル市警と激しい市街戦を展開した末に全滅する。

アクション映画もどきの銃撃戦が首都を震撼させたのは、日本に目を移せば1968年(昭和43年)、東京オリンピックから4年を経て、高度経済成長は真っ盛りだった。

さて、軍服を脱いで私人を装った朴正煕は大統領に当選したものの、彼が陣頭指揮する軍事独裁政権は、反対する者を仮借なく弾圧する恐怖の人権蹂躙集団だった。反体制派の人々を連行して凄惨な拷問を加え、権力を監視すべき報道機関は無力化された。

さらに朴正煕は72年(昭和47年)10月に戒厳令を布告し、国会を解散、政党・政治活動を禁じ、大学を閉鎖するのだが、呆れたことに、これらの暴挙愚挙を日本の明治維新になぞらえ「維新体制」と呼んだものだ。

独裁者に果敢に挑戦する金大中(キム・デ ジュン)が東京九段のホテルから拉致された、所謂「金大中氏事件」が起きたのは大阪万博から3年後、73年(昭和48年)のことである。韓国の公権力が日本の主権を侵害したとして、国内世論を大いに騒がせた。

その2年後には、フレームアップ(でっちあげ)とされる「人革党事件」で、“主犯”の8人が死刑を執行されている。

朴正煕は国内で同胞の血を流しただけではない。アメリカの要請を受けて、ベトナムに延べ31万人余りの部隊を派遣し、多くのベトナム人を殺傷した。

派兵の見返りはアメリカからの巨額な援助である。世に「漢江(ハンガン)の奇跡」ともてはやされる驚異的な経済発展は、ある意味、ベトナム人の血で購(あがな)われたにも等しい。

独裁者の最期は、意外な形でやってきた。

クーデタから18年を閲する79年(昭和54年)10月26日、朴正煕は酒席で、腹心の中央情報部長官・金載圭(キム・ジェギュ)に射殺された。享年61。

注目すべきは日付だ。70年前のまさにこの日、奇しくもハルビン駅頭で安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を狙撃しているのである。安重根の銃弾が本人の意志に反し、むしろ日韓併合を推進する結果を招いたと同様、金載圭の放った一発もまた、彼の「野獣の心で維新の心臓を撃ち抜く」覚悟とは裏腹に、悲惨な事態をもたらした。

――光州(クァンジュ)事件を。

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