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アレクサンドロス大王はなぜ、世界を征服しようと考えたのか

2018年10月11日 公開
2018年10月23日 更新

佐藤賢一(作家)

フィリッポス二世、ギリシア統一へ

世界史の授業前354年、フィリッポス二世はマケドニアから南東のテッサリア地方に進出します。内紛に乗じて出兵するや、これを鎮めてテッサリア連邦の長アルコン官となり、同地の支配を固めたわけです。

前348年は東のトラキアで、カルキディケ半島のオリュントスを壊滅させます。これがアテネの同盟市でした。緊張が高まるまま、前340年にアテネはマケドニアに宣戦し、同時にテーベを自らの同盟に引き抜きます。

前338年8月、迎えた決戦がカイロネイアの戦いで、これにマケドニア軍は大勝します。用いたのは斜線陣の応用でした。敵の戦列にはテーベの神聖隊もいましたが、これに初めて土をつけたのが、そこから多くを学んだフィリッポス二世だったわけです。

前337年、そのままコリントスに全ギリシアから各勢力の代表を招集します。スパルタだけは応じませんでしたが、それを除いた全員でコリントス同盟を結び、マケドニア王がその盟主にして全権将軍の座につきます。ここにフィリッポス二世は、ギリシア統一を遂げたわけです。

それまでのギリシアはポリスの世界ですから、要するに小さいのが沢山あって、互いにやったりやられたりを繰り返していました。それぞれは繁栄していたし、相応に力もあったんですが、いかんせんバラバラで、全ギリシアとしては力を結集できなかった。

そこにフィリッポス二世はマケドニアという、ひとつと抜きん出た国力で乗りこんできて、統一ギリシアという大きなまとまりを作りました。なんのためといって、ペルシアと戦うためですね。ギリシアが頭を押さえられている状況を変えるためです。

ペルシアは圧倒的な大きさです。それにギリシアがポリスごと、あるいはいくつかのポリスごとかもしれませんが、いずれにせよ小で戦うしかないとすれば、勝ちようなんかありません。ところが、そのギリシアがフィリッポス二世の手でまとめられて、ペルシアは依然として大だけれど、圧倒的というほどの大ではないというところまで来たんですね。

次はペルシア─フィリッポス二世は迷いません。ギリシアの悲願として、打倒ペルシアの気運が熟成されていたんでしょうね。あるいは時間を置いては駄目だ、せっかくまとめたコリントス同盟も、無為に日々をすごしては瓦解するかもしれないと、焦りもあったかもしれません。

パルメニオン将軍率いる先遣隊の出発が、前336年の春だったといいますから、ギリシア統一の直後、もう文字通りに軍を解散することなく、そのままペルシア遠征が着手されています。ところが、です。フィリッポス二世は、ここで暗殺されてしまいます。

実行犯が近衛兵で、色恋沙汰、それも同性愛のもつれからとも、いや、背後にマケドニア宮廷の陰謀があったのだともいわれますが、とにかく殺されてしまうわけです。

せっかくの勢いが削がれます。実際、フィリッポス二世の跡目争いが起こりました。先進のポリスは一夫一婦制でしたが、後進マケドニアは一夫多妻制でしたから、これは揉めてしまいますね。

ギリシアにもコリントス同盟から抜けて、反マケドニアの旗幟を鮮明にする動きがあります。ドタバタは不可避で、2年間くらい続きましたが、そのドタバタを収めたのがフィリッポス二世の息子、新たにマケドニア王にしてテッサリア連邦長官、コリントス同盟全権将軍となった、アレクサンドロス三世でした。

いうところの、アレクサンドロス大王です。

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