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縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?

2019年04月17日 公開

関裕二(歴史作家)

埴輪

※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
 

縄文人が水田稲作をはじめていた証拠

長い間、弥生時代は「弥生土器を使用した時代」と考えられていた。しかし、考古学の進展によって、この定義が揺らぎつつある。弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、水田稲作が始まったというかつての常識は、もはや通用しなくなったのだ。縄文から弥生時代への移り変わりがグレーゾーンに入った。近年しきりに耳にするのは、「縄文と弥生の境目がわからなくなった」という話である。

縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と考えているようでは、もはや時代遅れなのだ。土器は技術が伝承され、文化は継続されるのだから、はっきりとした時代区分はできないというのが、すでに常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もある。境界線が、じつに曖昧なのだ。

ならば、稲作をはじめた地域から、弥生時代は始まったと言い換えればよいのだろうか。

ところが、稲作をはじめた地域の人間の使う道具が縄文的な香りを残していたりする。いつから、その地域が弥生時代に突入したのかも、線引きが難しくなってきた。だから、「縄文晩期末にすでに稲作は始まっていた」、「いや、稲作が始まった時点で、それはもうすでに弥生時代だから、弥生時代早期と呼ぶべきだ」と、色々な区切り方が生まれてきてしまうのだ。

昭和53年(1978)から翌年に板付遺跡(福岡県福岡市)の調査が行われ、弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ。縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から、水田遺構と木製の鍬、石製の穂積具(石包丁)、炭化したコメ(ジャポニカ)がみつかった。明らかに「縄文人が水田稲作をやっている!!」という、それまでの常識では考えられない事態に、みな戸惑ったのである。発掘に携わった山崎純男は、これを「縄文水田」と、断言した(森岡秀人・中園聡・設楽博己『先史日本を復元する4  稲作伝来』岩波書店)。

水田遺構は、幹線水路、井堰、出水路、排水路、畦畔など、しっかりとしたものだった。

水田から水が流れ落ち、下の段の水田に水を供給するシステムまで、すでに登場していたのだ。水田のあとには、人の足跡が残されていて、福岡県警の鑑識も協力し、身長164センチという、当時にしては高身長だったこともわかった。縄文時代から継承された生活道具で暮らしながら、新来の水田技術を駆使していた様子が浮かび上がってくる。

ちなみに、遺跡のある「板付」は、福岡空港のすぐ脇で、かつてこの空港は板付空港とも呼ばれていた。それはともかく、夜臼式土器は、刻目をもつ突帯文土器で、縄文土器の伝統を継承していた。興味深いのは、戦後すぐ、板付遺跡で板付Ⅰ式土器が発見されていたこと、その後北部九州では、夜臼式土器と板付Ⅰ式土器がともに出土する例が多かったが、板付Ⅰ式土器は、遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ。遠賀川式土器といえば、弥生前期を代表する土器である。

考古学者はこう判断した。夜臼式土器は縄文時代の終わりに、板付Ⅰ式土器は、弥生時代の始まりに作られた、というのだ。つまり、板付遺跡は、縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか。

一方、昭和54年(1979)に、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で夜臼式土器よりも古い、山ノ寺式土器と同時代の水田が出現したのだ(ちなみに、その後、この水田が夜臼・板付Ⅰ式まで時代が下ると、報告は変更されるのだが)。また、弥生時代前期と見なされていた石器が、出土していた。

昭和55年(1980)には、曲田遺跡(福岡県糸島郡二丈町)の住居跡から、夜臼式土器よりも古い突帯文土器(曲り田式)と共に、大陸系の磨製石器だけではなく、なんと鉄器まで埋まっていたのだ。

縄文晩期から弥生時代中期にかけて、日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた。釡山市の東三洞貝塚から、九州の縄文土器が大量に発見されてもいる。

北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に、渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。

この結果、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたのだ。縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた。
 

最初から稲作一辺倒だったわけではない

ところで、すでに触れたように、縄文時代にすでに稲作は行われていた。縄文中期末(約4500年前)の土器の表面に、稲籾の圧痕が着いていたのだ。「本当に稲なのか」と、疑われることもあったが、イネ科植物に含まれるケイ酸の化石(プラントオパール)が、縄文後期中ごろの土器の胎土に含まれていたことから、縄文時代の稲作は、確実視されるようになった。ただし、水田ではなく、陸稲だった。また、縄文後期中ごろから、オオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなどの穀物や豆類の圧痕もみつかっている。

また、縄文系と思われていた突帯文土器の時代に、すでに水田稲作が行われていたのは、北部九州沿岸部だけではない。四国、中国、近畿でも、同じように、水田稲作民が登場していたのだ。

穀物を栽培していた縄文後・晩期の西日本の縄文人を、考古学では「園耕民」と呼ぶ。彼らは川の下流部には住まなかった。たとえば稲作がもっとも早い段階に始まった早良平野でも、園耕民は、川の中流、上流で暮らしていた。縄文人は低湿地を好まない。縄文海進によって海面が高かった時代から続く伝統だ。穀物だけではなく、さまざまな手段で食料を調達する園耕民は、川の上流側を選んだ。

ところが、縄文時代の晩期は冷涼多雨で、下流域に稲作に適した低湿地が形成されつつあった。これは偶然なのか、あるいは、この自然条件があったから、縄文人が生業を変えようと決意したのかどうか、よくわからないが、ここで水田稲作が始まったのは間違いない。

この時代の遺跡からは、水田稲作に用いる新たな道具に混じって、縄文人が陸稲栽培に用いた打製の土掘り具が見つかっている。また、食料も、縄文時代以来継承されてきたような、「多彩な食物(イノシシやシカなどの動物、魚貝類、ドングリ)採取がメインで、米食は補完」と考えた方が正確なのだ。2つの生産方式を並行して行っていた。はじめは従来の食料を補完するために、水田稲作を選択したわけである。

ただし、やがて水田の面積は広がり、採集や狩猟は下火になっていくのである。

そしてもう1つ、縄文から弥生への転換期を考える上で大きな意味をもってきたのが、「いつごろ水田稲作を始めたのか」だった。

かつて、弥生時代の始まりは、紀元前300年から、同500年ごろと信じられていた。

このころ、中国大陸では、春秋戦国という大混乱の時代だったのだ。多くの難民が海に逃れ、日本列島に押し寄せて、弥生時代は始まったと信じられていた。ところが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半と考えられるようになり、「稲作を選択したのは縄文人だった」という考古学の証言とも、一致してきた。さらに、稲作はゆるやかに東に伝わっていったと考えられるようになった。

考古学者・金関恕(かなせきひろし)は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のように総括する。要約しておく。

(1)イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
(4)まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。

こうして、「渡来人に席巻されて稲作が広まった」というかつての常識は、完ぺきに覆されたのだ。

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