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かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは?

2019年03月20日 公開

関裕二(歴史作家)

三内丸山縄文遺跡
国指定特別史跡 三内丸山遺跡(青森県青森市)
 

一度、教科書から消えた縄文時代

ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。

なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。

しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。

その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。

たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。

神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。

似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。

かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。

しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。

奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。

ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。

次のような指摘もある。

縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。

この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。
 

戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害

農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。

すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。

この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。

ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。

戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。

もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。

たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。

そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。

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