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93歳の関ケ原!大島光義~信長・秀吉・家康から認められ、大名となった弓の名手

2019年09月16日 公開
2023年01月12日 更新

近衛龍春(作家)

長良川と稲葉山
岐阜・長良川

還暦を過ぎて織田信長に仕え、90を過ぎて 「関ケ原」に参戦した遅咲きの大名・大島光義。 彼が得意としたのは弓。 長井、織田、丹羽、豊臣、徳川……。 次々と主家を変えながらも生き抜くことが できたのは、その弓の力ゆえであった──

近衛龍春(作家)
昭和39年(1964)、埼玉県生まれ。大学卒業後、オートバイレースに没頭。通信会社勤務、フリーライターを経て『時空の覇王』で作家デビュー。著著に『伊達の企て』『長宗我部 最後の戦い』『裏切りの関ヶ原』『毛利は残った』『上杉三郎景虎』『南部は沈まず』『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』などがある。

 

弓を極めて家の再興を

「百発百中ノ妙ヲアラワス」と『丹羽家譜伝』に記されている大島光義は、弓一張で大名に昇り詰めた武将である。
光義は永正5年(1508)1月7日、美濃に生まれた。一説には大永元年(1521)生まれともいう。生誕地は関(岐阜県関市、山県郡、加茂郡)、大島(大垣市)説があるが特定するのは難しい。当初は光吉を名乗り、仮名は甚六、新八郎、鵜八を称していた。

光義以前の大島家はあまり明確にされていない。『寛政重修諸家譜』などによれば新田源氏を称しているが、近年では『続群書類従』の土岐氏流大島氏の末裔が有力とされている。『大嶋家史』の系図によれば、三代の義継の時、上野新田郡の大嶋に在して大嶋を名乗り、その後、美濃に住した。別系図では光義の七代前の兼経から大島姓を名乗ったという。

光義の祖父の瑞信(光氏)は美濃の守護・土岐政房の下で三奉行の一人を務めていた。

美濃守護の土岐家が頼武と頼芸の兄弟で家督を争った永正14年(1517)、大島家の家督は瑞信の息子の光宗が継いでいた。光宗は寄親ともいうべき長井長弘とともに頼芸派に加担したものの、光宗は山県の戦いで討死してしまった。大島家の家譜では、これを永正12年(1515)としているが、真偽のほどは不明。

光宗の死によって、光義は僅かながらの所領を失って孤児となり、多芸郡にいる縁者の大杉某の許に身を寄せた。

家の再興を果たすには、戦功をあげて認められるしかない。光義は数年の間、昼夜を問わず弓の修行に勤しむしかなかった。

13歳の時、多芸郡で国人衆どうしの争いが起こり、光義は初陣を果たして、敵一人を射倒した。続く戦いでは鉄砲を相手に勝利し、さらに樹の陰に隠れた敵を樹ごと射抜いて討ち取った。あまりの威力に敵の一人は感心し、矢を抜かずに、一本の矢で繫がった樹と首を切って光義の許に届けたという。

大杉家に国人が押し入った時、光義は即座に敵二人を射倒し、さらに後続も矢で射ると、敵は臆して退散していった。

その後の合戦でも敵の鑓衆を射倒して弓の大島の名を轟かせると、斎藤道三の長男にして関城主の長井道利に見込まれて麾下となり、長井勢として戦陣に立つようになった。

天文20年(1551)、道三が主君の土岐頼芸を追い出して美濃を掌握した時、同じ土岐氏の血を引く光義は、悔しかったに違いない。ただ、道三の血を引く長井道利の世話になる身でもあるので、道三に反旗を翻すわけにもいかない。一人で対抗する術もなく、力不足に苛まれながら見送るしかなかった。

道三と嫡男の義龍が争った時、長井道利は義龍に与したので、光義は義龍方として道三に矢を放つことになった。義龍方が勝利したので、ささやかながら主君の仇討ちができたと、喜んでいたかもしれない。

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