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赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説

2019年11月27日 公開

山本博文(東京大学教授)

※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHP研究所刊)より、一部を抜粋編集したものです。
 

浅野内匠頭の武士としての体面

日本人の大好きな「忠臣蔵」は、赤穂事件という本当に起こった事件をもとにはしていますが、随分脚色がなされています。

歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が、現在の「忠臣蔵」ものの映画やテレビドラマの原型になっていますが、これは非常に脚色が多く、事実とはまったく異なります。最近は、かなり史実に忠実なものが出ていますが、それでもいろいろと脚色されています。歴史学者は誤解を避け、「忠臣蔵」ではなく、「赤穂事件」と言います。

その「赤穂事件」とは、元禄14年(1701)3月14日に起こった、赤穂藩主の浅野内匠頭が高家筆頭の吉良上野介に斬りつけた刃傷事件と、その翌年12月14日に、赤穂の旧藩士たちが吉良上野介の屋敷に討ち入り、上野介の首を取った事件、その一連の事件を総称したものです。

では、その刃傷事件の原因とは何だったのでしょうか?

浅野が吉良に何か含むところがあったというのは、浅野自身が証言していますので確かです。しかし、どうして刃傷に及んだのかは、浅野自身も話してはいないのですが、勅使饗応役を務めるうちに、吉良から老中の前で面子を潰されるようなことを言われ、その屈辱を晴らさないと自分の武士としての名誉は傷つくと思って吉良を討とうとしたようです。ですので、発作的ではなく、吉良をどうしても殺さなければ自分の面子が立たないと思い込んで斬りかけたというのが真実のようです。

しかし、即日切腹というのは、あまりに厳しすぎるのではないかとよく言われます。では、これは当時、当たり前のことだったのでしょうか?

仮に、刃傷事件を起こして相手が死ねば、理由の如何を問わず切腹です。それが喧嘩両成敗です。しかし、この場合、相手の吉良が生きていたので、もう少し審議があってもよかったのではないかと思います。

しかし、ちょうどその日は、将軍綱吉が勅使に答礼する日でした。その儀式の場を血で汚したということで、綱吉は怒りにかられて、即日切腹という拙速な沙汰を下してしまったようです。もう少し事情を聴いていれば、また成り行きは違ったと思うのですが、そのまま浅野が切腹してしまったことによって、その後に赤穂の旧藩士による討ち入り事件が起こることになるわけです。

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