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斎藤道三とは何者なのか~一代ではなく、二代で成し遂げた「国盗り物語」



2020年04月17日 公開

谷口研語(中世史研究者)

岐阜 稲葉山城

従来、油売りから身を興して、一代にして美濃を「国盗り」したといわれてきた斎藤道三。しかし、研究成果により、そのイメージは完全に覆っている。道三の真実の姿は、どこまでわかっているのか──。

谷口研語(中世史研究者)
昭和25年(1950)、岐阜県生まれ。法政大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。専攻は日本中世史。著書に『美濃・土岐一族』『明智光秀』『「地形」で読み解く日本の合戦』等がある。

 

信じられてきた、道三の「国盗り物語」

「戦国の梟雄」と形容され、「美濃の蝮」と綽名される斎藤道三は、一介の油売りが十数年で大国美濃の国主へと成り上がった、下剋上の体現者として伝えられてきた。

かれは生涯に19度も名前を変え、そのたびに、その地位を高めていったとされる。この道三の成り上がり伝説は、司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』が、昭和48年(1973)にNHKの大河ドラマとされたことで、一躍、全国的に注目されるところとなった。

道三の事績を詳述する江戸時代の書物には『土岐累代記』『美濃国諸旧記』『美濃国諸家系譜』『美濃明細記』など多くのものがある。それらには細かいところで異同があるが、大まかに要約すれば道三の「国盗り」の過程は以下のようなものであった。

なお、あらかじめ家格について確認しておくと、美濃守護は土岐氏、土岐氏の家老が斎藤氏、斎藤氏の家老が長井氏という関係になる。

さて──

道三はもともと山城国西岡の松波基宗の息子で、幼い時から大変利発だった。11歳で京都の日蓮宗寺院妙覚寺に入り法蓮坊と呼ばれた。兄弟弟子に美濃出身の南陽坊がいたが、南陽坊が美濃へ帰ったのを機に、法蓮坊は還俗して西岡に帰り松波庄五郎と名乗った。その後、油商奈良屋に婿入りし、山崎屋庄五郎と称して毎年のように美濃へ油の行商にきていた。やがて、かつて同僚だった南陽坊が美濃常在寺の住持になっていた伝手で、長井長弘のもとに出入りするうちに頭角を現し、長井氏の重臣西村氏の名跡を継いで西村勘九郎と名乗った。

当時、土岐頼芸が兄政頼(頼盛・盛頼とも)との守護後継争いに敗れ、鷺山に不遇をかこっていた。勘九郎は得意の歌舞音曲をもって頼芸に近づくと、頼芸を巧みにそそのかし、みずから先兵となって革手城を奇襲、守護政頼を追い、頼芸を守護の座につけた。これでますます頼芸の信頼を得た勘九郎は、長井長弘夫婦を暗殺、長井新九郎利政と名乗り、さらに斎藤氏を名乗るまでになると、ついには頼芸をも追放して美濃の国主に成り上がったという。

このような話は『信長公記』の首巻にすでに見えている。

道三はもともと山城西岡の松波という者だった。美濃へ下り長井藤左衛門の家臣となったが、藤左衛門を殺して長井新九郎と名乗ると、大桑城の土岐頼芸の支持を得て、思い通りに成り上がった。頼芸の子息の次郎を娘の婿にして稲葉山城の山上に、その弟八郎を山下に住まわせて、次郎を毒殺し、八郎を自殺に追いやった。さらに、大桑にいた頼芸を追い出し、頼芸は尾張の織田信秀を頼った。

『信長公記』はこのように記す。

同書は信長の弓衆太田牛一(1527〜?)が信長の没後に著した信長一代記で、史料としての信頼度は高い。ただ、首巻については、牛一による情報の収集と整理に難があり、随所に錯誤がある。それでも、牛一の存命中に、すでに道三一代の成り上がり伝説が形作られていたことは認めていいであろう。

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