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山本五十六は、なぜ真珠湾奇襲攻撃を決断したのか

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

山本五十六
山本五十六

真珠湾攻撃。その知らせに世界が驚愕したのは、米太平洋艦隊主力を壊滅させた戦果だけではなく、航空攻撃による奇襲という常識を覆す革命的な発想にあった。連合艦隊司令長官山本五十六はなぜ、この博打にも等しい作戦に踏み切ったのか。また、対米戦に反対し続けていた彼の、作戦に託した「真意」とは何であったのか。

※本稿は『太平洋戦争の名将たち』(歴史街道編集部編、PHP新書)より一部を抜粋編集したものです。
 

世界を一変させた戦術と山本五十六の個性

その知らせに全世界が驚愕した。

昭和16年(1941)12月8日。日本海軍の南雲機動部隊が、米太平洋艦隊の根拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を、航空兵力をもって奇襲攻撃したのである。日本の攻撃隊は極めて正確な雷撃、爆撃をしかけ、在泊の米戦艦八隻を撃沈破することに成功。これによって米太平洋艦隊は主力艦を一挙に喪失する壊滅的打撃を受け、太平洋における当面の軍事行動が不可能となった。まさしく未曾有の大戦果を挙げたのである。

しかし世界が驚愕したのは、その戦果だけではない。この作戦があまりにも革命的な、常識では考えられないものだったからである。

まずこの作戦の革命性は、空母を集中運用し、その艦上機を主兵力として艦船を攻撃する、「航空主兵」を実践した点にあった。

当時、航空機で大型艦船を撃沈することは極めて困難とされており、航空機の実力も理解されているとはいえず、空母も戦艦の補助的存在と考えられていた。海戦の帰趨は、あくまで戦艦の優劣によって決まるというのが世界の「常識」だったのである。

その「常識」を覆したのが真珠湾攻撃だった。南雲忠一司令長官率いる第一航空艦隊は、正規空母6隻、艦上機350機をもって、米戦艦群を瞬く間に撃沈してのけたのである。

そしてこの作戦は、伸るか反るかの大博打ともいうべきリスクを負ったものだった。

日本の機動部隊が北太平洋を横断し、ハワイに至るまでには10日以上を要する。その間、これほどの大部隊(正規空母6、戦艦2、重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦9他)が無線も封止し、秘密裏に航行するのは極めて困難である。もし他国の船に発見され、アメリカが察知してハワイで待ち構えるようなことがあれば、機動部隊は返り討ちに遭う恐れもあった。しかも日本海軍はこの作戦にほぼ全ての空母を投じており、大敗すれば、機動部隊は緒戦で壊滅してしまう。

なぜ日本海軍は、これほどまでに危険な大博打に打って出たのだろうか。それはひとえに、

作戦を主導した連合艦隊司令長官山本五十六の個性に拠るところが大きい。

当時、日本海軍でもほとんどの者は戦艦の優劣が勝敗を決めると考えていた。そうした中で、山本が「航空主兵」の構想を持つに至ったのは、その経歴と経験に秘密があった。

山本は大正13年(1924)、パイロットの養成機関である霞ケ浦航空隊教頭兼副長に任じられたのを皮切りに、航空機開発部門である航空本部の技術部長、海軍航空本部長を歴任し、いわば航空機のプロフェッショナルへの道を歩んだ。

また山本は、昭和5年(1930)にロンドン海軍軍縮会議に出席。軍艦の建造に歯止めをかける世界の潮流に接したことで、今後は戦艦主体の軍備は頭打ちとなり、いずれ「航空主兵」の時代が来ることを肌で感じ取っていた可能性もある。

その「航空主兵」という発想が、いつごろ真珠湾攻撃という具体的な作戦に結びついていったのかは定かではないが、山本が初めてその一端を口にしたのは、日米関係が悪化する最中の昭和15年(1940)3月の艦隊訓練でのことであった。この時、攻撃機が雷撃訓練で次々と魚雷を命中させるのを見た山本は、「空母によるハワイ攻撃はできないものか」と連合艦隊参謀長に漏らしたという。

とはいえ山本は、アメリカとの戦争には断固反対の立場を取っていた。駐米武官の経験もある山本は、「アメリカの工場の煙突の数を数えてきたまえ」が口ぐせで、アメリカの工業力がいかに強大か十分にわきまえており、日本の国力ではとても太刀打ちできないことが痛いほど分かっていた。だが、実戦部隊の最高責任者・連合艦隊司令長官である以上、開戦となった場合、いかに戦うかを考える責任を負っていた。

そして皮肉にも、日米関係の悪化を受けて、対米戦争は日に日に現実味を増し始めた。

昭和15年11月末。海軍内で対米戦が協議される中、山本はついにその作戦を海軍首脳に披瀝する。

「開戦劈頭、敵主力艦隊を猛襲、撃破して、米海軍および米国民をして、救うベからざる程度にその士気を阻喪せしむる」

すなわち、開戦と同時に真珠湾を航空兵力によって奇襲攻撃するというのである。圧倒的国力を擁するアメリカに対抗するには、虎穴に入る覚悟で敵艦隊の根拠地を猛撃し、主力艦隊を壊滅させ、それをもとに講和を図るしかないというのだ。

山本にとっては「これしかない」という決意を込めた作戦だったが、海戦といえば艦隊決戦を考える海軍の主流からはあまりに常識外れと捉えられ、見向きもされなかった。しかし山本は諦めず、大西瀧治郎第十一航空艦隊参謀長に真珠湾攻撃の作戦を練るように密ひそかに命じ、作戦を具体化する作業に入っていく。 

こうして完成した真珠湾攻撃作戦案が軍令部に提出されると、軍令部は投機的に過ぎると猛反対をした。だが、山本は一歩も退かなかった。そして昭和16年10月19日、「この作戦が認められなければ連合艦隊司令長官の職を辞す」という山本の前に、軍令部は、ついに承認するのである。

かくして、博打に等しいともいえる真珠湾攻撃が敢行されることになるのだが、山本には、彼なりの成算があった。なぜなら山本が真珠湾攻撃を口にした昭和15年とは、日本海軍の航空機部隊がまさに世界レベルに達し始めた年だったからである。そしてその充実には、山本自身が深くかかわっていた。

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