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奇蹟の医師・肥沼信次~敗戦後のドイツ、チフスの猛威に立ち向かった「ドクター・コエヌマ」

2020年08月12日 公開

秋月逹郎(作家)

希望はその灯が消えても諦めてはならない

当時のヴリーツェンは溜め息をつくほど美しい古都だったが、連合軍の空襲によって市街地の9割が灰燼に帰し、そこへポーランドを追放されたドイツ人の元兵士や難民が押し寄せたため、5千人だった人口が数倍に膨れ上がった。さらに水道管は分断され、変電所も破壊されるなど社会基盤は崩壊しており、不衛生の極致に追い込まれていた。虱を媒介とする戦争熱こと発疹チフスが蔓延するのは、当然だった。

真夏の溽暑の中、医療設備などまるで整っていない施設では、室内も廊下もチフス患者が溢れ、病床はまるで足りず、患者は藁を敷いた上に乱雑に寝かされていた。くわえて吐瀉物や汚物で悪臭が漂い、食事のあてもなく、あらかたが瀕死の状態だった。コエヌマは、絶句した。ほぼ同時に着任した他の職員らも身を竦ませ、天を仰いだ。

「ですが、雷に打たれたような気がしたのは、そのすぐあとです」

シュモークの取材に答えたのは、当時17歳の看護婦だったヨハンナ・フィードラーだ。

「コエヌマ博士の下で働くことになったのは、料理人や掃除婦を含めた総勢14人。みんな立ち尽くしました。ところが、腰の引けたわたしたちに、博士はこう仰ったのです。君たちに使命感はないのかと」

そのひと言で、ヨハンナたちは覚悟を決めた。重篤な患者から治療を施してゆくコエヌマに従い、患者の手を取り、声を出して励まし、衛生指導を行なっていった。

奇蹟は徐々に起こった。死の瀬戸際に追い込まれていた患者が恢復し始めたのだ。

しかし、それと反比例するごとく、半年の内に、看護婦をはじめ9人ものスタッフが斃れた。無理もない。1日の診察数は、150人。尋常な数ではない。

しかも、入院中のチフス患者だけでなく、コエヌマを頼って近在の市町村からも一般の外来患者がやってくる。かれらは行列をつくり、ひたすら診察の順番を待った。コエヌマだけが頼みだったからだ。

コエヌマは、施設での診察では足りないとして、治療の合間を縫っては周辺の町や村へ往診し、ときにはベルリンまで足を延ばして薬を集めた。自宅にも診察室を設け、食事はおろか、睡眠時間まで削るという凄まじさだった。

「わたしは、博士が睡眠を取られるところを見たことがありません。お世話をしていたエンゲルも、2時間も横になっておられなかったと断言しています。そうした日々が半年も続いたのです。それでも博士は満足しておられませんでした。

あるとき、恢復された患者さんのご家族が感謝を伝えたいとお越しになりましたが、博士は応対に出られませんでした。ヨハンナ、君が代わりにご挨拶してきなさい、わたしは医師として当たり前のことをしただけだから感謝されては却って困るのだよと、微笑まれるだけなのです。わたしは、確信しました。この方は、神話の戦士だと」

シュモークが証言を得た中に、コエヌマの治療を受けたという住民がいた。当時5歳だった、薬剤師のギゼラ・ヴォイツェクである。

その少女が施設に担ぎ込まれた際、すでに40度の高熱を発してから3日が経過していた。意識も朦朧とし、死の淵に立たされている。一刻も早く投薬しなければ、助からない。

「けれど、薬は尽きていたのです。わたしは、死ぬよりほかにありませんでした。ところが、Dr.コエヌマは諦めませんでした。希望はその灯が消えてしまっても諦めてはならないのだと、ソ連軍の駐屯地へ向かったのです。野戦病院には薬があるはずだと。けれど、野戦病院までは徒歩で2日かかります。誰もが無理だと嘆息しましたが、博士は駈け出しました。焼土の荒野を死にもの狂いで駈け続け、ついに野戦病院で薬を手に入れ、また走り、瀕死のわたしに投薬してくれたのです」

だが、ギゼラの命は救ったものの、コエヌマ自身はもはや限界だった。ただの一日も熟睡せぬまま、ひたすら治療に励んだ末、ついに倒れた。年が明けて間もない或る日で、明らかに発疹チフスに感染していた。

周りの皆は「身体を休めなければ駄目だ」と説得したが、コエヌマは「治療が優先です」と努めて明るく首をふり、聴診器を手にした。

だが、3月2日、ついに起てなくなった。悔し涙を浮かべ、5日後、エンゲルを枕辺に招き、微笑みかけつつ「誕生日、おめでとう」と、かぼそい声音で祝福した。

「お祝い会をしてあげたかったけれど、できないんだ。ほんとうに、すまないね……」

そして翌日の3月8日、薄れゆく意識の中で、こう呟いた。

「桜が、見たい。みんなに、桜を見せてあげたい。ああ、桜が、桜が見える……」

享年37。共同墓地に葬られたが、ソ連軍は日本政府への報告を怠った。

シュモークの調査もここまでだった。あとは、いっさいわからない。ソ連はコエヌマの親族にすらなにも報せなかったのか。わたしは諦めない、コエヌマの功績を、彼の故郷に報せるのだと決意した。

シュモークの決意に応えた人物が、在独の外国人研究者支援をしていたアレクサンダー・フォン・フンボルト財団の研究所長クルート・R・ビアマンだった。彼が、フンボルト大学(通称・ベルリン大学)で同僚だった数理哲学者の村田全客員教授に、コエヌマ調査の協力を持ち掛けたのである。

村田は快諾し、1989年12月14日付『朝日新聞』の尋ね人欄に「故コエヌマ・ノブツグ医師(漢字不明)のご遺族、ご親類の方〜」と投稿した。その記事を眼に留め、身を震わせた日本人がいた。肥沼栄治といい、長年に亘って兄信次の消息を求め続けていた弟である。ようやく、コエヌマ・ノブツグは肥沼信次であることが判明したのだ。

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