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大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一…農民から大実業家へと導いた“5つの転機”

2021年02月13日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

 

新政府への出仕

幕府消滅後、徳川家は静岡70万石に縮小されたが、明治元年(1868)11月に帰国した栄一は、旧主慶喜のいる静岡へ移り住んだ。

新政府は、新紙幣「太政官札」(不換紙幣)を普及させるため、強制的に諸藩へ紙幣を貸し付けて利子をとる政策をすすめていた。静岡藩も50万両以上を押しつけられた。

栄一はこの借財を確実に返すため、フランスで知った合本会社(株式会社)を組織しようと、静岡の商人たちに呼びかけ商法会所を設立、自身が頭取になった。そして太政官札で穀物や肥料を買い、領民への融資をおこない、大きな利益をあげたのである。

翌明治2年(1869)、そんな栄一のもとに新政府からの出仕命令が届いた。

栄一が東京へ赴くと、政府から民部省租税正を拝命した。今で言えば、財務省主税局長だ。しかし栄一は、大隈重信大蔵大輔兼民部大輔(省の実質的なトップ)を訪ね、「私は静岡での事業に励みたい」と辞意を告げた。

すると大隈が、「政府はこれから我々が智識と勉励と忍耐とによって造り出すもの」「是非とも力を戮せて従事しろ」(『雨夜譚』)と懇切に慰留したので、その熱意に負けて、栄一は奉職を約束したのである。これが第五の転機。

こうして民部兼大蔵官僚になった栄一は、「有為な人材を集め、大蔵省内に一部局をもうけ、旧制の改革や新組織、法律などは、すべてこの部局を通して実現させていくべきです」と大隈に提案した。

度量の大きい大隈が了承すると、栄一は徳川家や大蔵・民部省から有能な人物十数名を集めてエキスパート集団「改正掛」、今でいうシンクタンクをつくったのである。

それからの栄一の活躍は、すさまじいの一言に尽きた。

上司は大隈から井上馨にかわったが、改正掛は新暦への転換、鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、郵便制度の創設、度量衡の統一、租税改革、新貨幣制度の設置、国立銀行条例など、矢継ぎ早にさまざまな仕事を手掛けていった。

栄一の功績は大いに評価され、大蔵権大丞へとスピード出世したが、明治4、5年(1871、2)頃から、実業界に入りたいと辞意を漏らすようになった。

栄一は、近代社会の形成は、政府主導ではなく民間主導で成しとげるべきであり、それには「官尊民卑の打破」が急務だと考えていた。ところが、官僚として商人たちと接する中で、学問もなければ気概もなく、役人に平身低頭する彼らの卑屈な姿を見て、失望する。

そこで、「今日の商人ではとうてい日本の商工業を改良進歩させる事は成し能わぬであろう、このさい自分は官途を退いて一番身を商業に委ね、およばずながらも率先してこの不振の商権を作興し、日本将来の商業に一大進歩を与えよう」(『雨夜譚』)という大望を抱くようになったのである。

明治6年(1873)、栄一は軍備拡張を主張する大蔵卿の大久保利通と対立を深め、ついに政府を去った。ある意味、この確執が栄一の背中を押したともいえた。

こうして政府を出た栄一は、第一国立銀行の頭取に就き、実業家としての第一歩を踏み出す。以後、半世紀にわたって五百社近い企業の創業や経営に関与し、「日本資本主義の父」と呼ばれる大実業家になったのである。

 

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