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新海誠 「日本の風景」で世界を驚かせたい

2013年07月10日 公開
2021年01月15日 更新

新海誠

作り手は「社会の空気」と無縁でいられない

 

木村 代表作である『秒速5センチメートル』と比較されることも多いと思いますが、いかがでしょうか?

新海 当たり前ですが、一般的なアニメーション技術もぼくらの腕も進化しているわけですから、単純な完成度は新しい作品のほうが高いことは間違いありません。

ただ、作品に込めた根本的なメッセージは変わっていません。一貫して「自分が思うように誰かが自分のことを思ってくれなくても、絶望しないで何とか前に進んでいこう」というメッセージを出しているのです。

たとえば恋愛では、好きな相手が自分のことを好きになってくれなければ、まるで「世界が終わった」かのような気持ちになりますが、ぼくは「そうではない」と伝えたいのです。

そのうえで『秒速』と『言の葉の庭』の違いを挙げるとすれば、前者は「自分自身のどうしようもない気持ち」に気づく話。後者は「他人と自分は違う人間」だと理解する話です。

今作の主人公は靴職人をめざす高校生ですが、そのような設定にしたのも、他人の足に触れることを通じて他人のことを知り、成長していく姿を描きたかったからなんです。自分のことを知るのも成長のうえでは大切ですが、今回は逆のベクトルで描いてみようと思いました。

木村 前作『星を追う子ども』(2011年)の完成直前に、東日本大震災が起きました。この2年間、「どういうものを届ければいいか」という葛藤があったのではないでしょうか?

新海 震災でわれわれは、自分たちの足元にある地面がいかに脆弱で、日常がいかに簡単に崩れ去るか、ということを実感しました。そのような経験をしながらつくった作品ですから、「いま、ここにある新宿の風景も、数十年後には確実になくなってしまう」という思いがあった。

だからこそ、自分が好きだと思う場所や生活している場所を、主観を通じた映像で残しておきたいという気持ちが強くなったんです。

また、作り手も社会のなかにいる以上、「社会の空気」を映画に反映せざるをえないと思います。たとえば今夏、宮崎駿さんが『風立ちぬ』を公開しますよね。

いま、このタイミングでゼロ戦の話を描くのは、いまの日本の空気とは無縁ではないと思うし、宮崎さん自身が否定しても、東アジアの国々に何らかのメッセージとして届く可能性もある。あれほどの才能の塊みたいな人でも、無意識のうちに時代の空気を映し出したものをつくってしまう。

僕もそれからは無縁ではないと自覚しています。それがどういうかたちで『言の葉の庭』に反映されているかは、あとで外から見て、初めてわかるものだと思いますが。

 

日本だからこそ作家性の強い作品ができる

木村  『ほしのこえ』でデビュー以来、アニメーション映画監督としてものづくりを続けるなかで、大切にしてきたものは何でしょうか?

新海 最初は、とにかくものをつくりたいという衝動しかありませんでした。ただ、当時は20代で若かったこともあって、会社としての作品よりも、自分の名前で見てもらえるものをつくれたらいいなと思っていました。自己顕示欲が強かったんでしょうね。

それで勤めていたゲーム会社をほとんど衝動的に辞めて、一人で『ほしのこえ』をつくった。そのときは、自分の技術を考えればアニメーションのほかに選択肢がなかったんです。

実写の映画なら、カメラマンも俳優も要りますが、アニメーションであれば、CGも背景もキャラクターも自分でつくれる。声も、男のキャラクターは自分で喋ればいい。音楽はつくれなかったので、勤めていた会社の先輩にお願いしましたが。

その後はだんだん集団でものをつくるようになるのですが、それでも監督をしながら、原作、脚本、絵コンテ、編集、撮影などに携わりました。

「自分自身で物語をつくりたい」「映像の最終的な仕上げにこだわりたい」という気持ちが強いので、ここはやはり譲れない部分なのかもしれません。

木村 将来的に、これらの作業をほかの人に任せたいという気持ちはあるのでしょうか。

新海 もちろん、任せられる方との出会いがあれば任せたいと思っています。たとえば今作の背景美術は、大部分を滝口比呂志さんにお願いしています。

具体的な構図を指示するのも、最後に絵を受け取って判断するのもぼくの仕事ですが、美術に関していちばん手を動かしたのは滝口さんで、あの背景は彼の絵だといえます。

アナログ出身で、緻密で絵画的な背景が好きな滝口さんがデジタルというツールを得たからこそ、アナログのよさを活かした、すべて手描きのデジタルの背景ができたのかもしれません。

また人物の作画に関しては、『雲のむこう、約束の場所』(2004年)から、実際の作業はアニメーターの方々にお任せしています。

そのうえで撮影監督として、描かれた背景とキャラクターを重ね、雨や光を加え、色をコントロールして合成を行ないます。つまり、作品の入り口と出口をコントロールする。

ここに関わることができれば、自分が求めているクオリティーが保証され、自分としては満足することができる。このような仕事のやり方ができるのは「日本ならでは」だと感じています。

木村 それは、なぜでしょうか。

新海 日本のアニメーションには、つくる際に「作家主義」が許される土壌があるんです。宮崎駿さんにせよ、押井守さんにせよ、細田守さんにせよ、それぞれの作家性が広く認められていますよね。

テレビアニメですら、一部の作品はそうです。それが楽しまれるという市場が確保されている。

一方、アメリカのピクサーなどの作品群はまったく異なります。それぞれ監督がいても、日本のアニメーション作品ほどの偏りは許されていない。

グローバルに観客を捉え、億単位の人に観られることを前提にしているため、数億人に確実に伝わる物語を組み立てている。しかし、日本のアニメーション作品が想定するのは最大でも1億人ぐらいの観客数だと思います。

木村 新海さんご自身は、どれくらいの観客規模を想定しているのでしょうか?

新海  『ほしのこえ』のDVDは10万本売れたのですが、物理的には大きな数とはいえ、「一人ひとりに自分のいいたいことが伝わっているだろう」「10万人に観てもらえて幸せだ」という実感がありました。その数がこの先、100万人、1000万人と広がってくれればという思いはありますね。

そのぐらいになれば、学校などで「新しい映画見た?」「あのキャラクターがよかったよね」と会話できるように、ぼくの作品が一般的なコミュニケーションのツールになる。

ただ、想像がつくのはせいぜいそこまでです。ピクサー作品のように数億人に観られるような考えはほとんどありません。多くの日本のアニメーション作品も同じであり、だからこそ、監督に作家性を許されているのかもしれません。

ぼくの強みも、まさに比較的少ない観客を想定する作家性だと思います。スタジオに入って修業した経験はありませんが、『ほしのこえ』という個人でつくったもので突き抜けたからこそアニメーション監督になれたわけだし、冒険的な作品をつくることが社会的に許されている。

今回の『言の葉の庭』も、46分という変則的な上映時間や、まったくフィクショナルな出来事が起こらない、現実で置き換え可能なストーリーを全編アニメーションでつくるといった点でかなりチャレンジングな試みです。

そういうことを続けさせてもらえる点を自分の強みだと理解して、ほかの一般的なスタジオとは違うものを出し続けることが使命だと思っています。

 

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