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情報を掴んでいた英軍がなぜ? チャーチルが生涯悔やんだ「シンガポール陥落」の裏側

2021年12月07日 公開
2023年02月01日 更新

岡部伸(産経新聞社論説委員/前ロンドン支局長)

 

インド国民軍の創設

前述したように、1941年12月8日、日本軍はマレー半島北端のコタバルに奇襲上陸すると、55日間で半島南端のジョホールバル市に到達した。敗走するイギリス側は、日本軍の対インド工作にようやく気づき始めた。先に引用した作成者不明のファイルには、「デイリー・ミラー」紙(1942年1月26日付)の「日本軍はインド人の裏切り者(第五列)を従えて進撃している」という見出しの記事の写しがある。

日本軍はイギリス領マレーで裏切り者のインド人の指導者たちを従えて進撃している。同時に、「新アジア秩序」を提唱して地域の完全独立を約束している。インド人の裏切り者は、インド人を無能にした(植民地)支配からの解放を試みる日本軍の一部となり、日本がアジア諸国と構築すると提唱するグループ(大東亜共栄圏)に協力すると約束している。

1942年2月15日、シンガポールが陥落すると、彼らが中心になってインド国民軍(INA)が創設された。藤原らは捕虜となった英印軍のインド人将兵から志願者を募って、INAを編制した。1943年7月、新しい指導者としてスバス・チャンドラ・ボースを迎えると、インド国民軍に参加する将兵の数は5万人に増加した。

 

マレー人の反英民族主義運動組織

「F機関」は、マレー各地に投降を呼びかける宣伝ビラを撒いた。その結果、ビラを握りしめて投降してくるインド兵があとを絶たなかった。

こうした「F機関」の活動の一端をイギリスが明確に察知するのは、シンガポール陥落目前のことだった。それを示すDSOシンガポール支部の報告書(1942年1月20日付)の抜粋(13a)に瞠目すべき記述がある。同報告書のサマリーにすでにその名が挙がっていたが、「第五列」組織として、「KAME」というマレー人の反英民族組織について書かれている。

日本の「第五列」活動の証拠として、日本人はシンガポール島内のイギリス空軍の動きを正確に把握している。とりわけ空軍機の行動を的確につかみ、ラジオ無線で報告していることが警察の捜査で判明。(中略)シンガポール警察と合同で日本人とマレー人による「第五列」組織名を初めて解明した。組織名は「KAME」で構成員はシンガポールに本部をもつ反英の民族主義全国組織「マレー青年同盟」(KMM)。

イギリス側が存在を突き止めた「第五列」の組織名、「KAME」こそ「F機関」が仕掛けたマレー工作の1つであった。

藤原が作戦成功後、1942年3月15日付で参謀本部に提出した「F機関の馬来工作に関する報告」には、工作目的として、(1)インド兵、インド人工作、(2)マレー人の反英民族主義運動組織KMMを支援して協力を促す「亀工作」、(3)マレー人の反英対日協力を醸成するため、マレー人匪賊の頭目ハリマオ(谷豊・たにゆたか)を活用する「ハリマオ工作」、(4)シンガポールの親英華僑を切り崩す「華僑工作」、(5)北スマトラのアチェ族の反蘭闘争を促進する「スマトラ工作」などが記されている。

このうち、同報告書に記された「KAME」とは、(2)の「亀工作」による「亀機関」のことであり、マレー人の反英、対日協力を醸成する目的で展開された。KMMは、マレーの貧困なインテリ層から構成した反英民族主義の全国組織であり、シンガポールの本部で『ワルタ・マラユ』というマレー語の機関紙を発行していた。

マレー作戦以前からシンガポールの鶴見総領事が接触し、同総領事館の書記生として潜入していた鹿児島少佐や同盟通信社の飼手記者が援助を続けていた。

「亀機関」は、「ハリマオ工作」と密接に連携して多くのマレー兵を投降させ、破壊活動を成功させた。

シンガポール陥落直前の1942年初めになって、「KAME」の存在を突き止めたDSOシンガポール支部は、陥落から約半年経った同年7月の報告書に、「KAME」とともに「FUZIWARA」と藤原の名前を初めて記している。

さらにイギリス側は「KAME」の解明を進めていき、DSOシンガポール支部による同月30日付の最終報告書(20a)では、「KAME」を日本の「第五列」組織の典型と書き、採取した証拠から、活動の際に用いる「KAME」のメンバーであることを証明する身元確認バッジを割り出している。

 

「謀略は誠なり」の精神

イギリス側は、前述したように日本の外務省のパープル暗号を解読していた。すなわち、シギントによって危険情報を入手していたものの、人種差別意識が邪魔をしてか有色人種のアジア人との信頼関係を結べなかった。

他方で日本は、アジア人と信頼関係を構築してイギリスを出し抜くことに成功した。戦後、クアラルンプールでの戦犯裁判で「グローリアス・サクセス(輝かしい成功)」の原因を問われた藤原が、「現地人に対する、敵味方、民族の相違を越えた愛情と誠意を、硝煙の中で、彼らに実践感得させる以外になかった」と答えると、

イギリス軍の探偵局長は「マレー、インド等に20数年勤務してきた。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことがついにできなかった」と告白したと、藤原は自著『F機関』で回顧している。

 

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