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火葬が始まったのは戦後...代々続く墓でも“せいぜい三代前まで”の理由

釋龍音(僧侶)

2023年02月24日 公開

お寺にお布施などをすることで、葬儀や供養を行ってもらう檀家制度は、そもそもどのように生まれたのでしょうか。また、今では一般的となっている火葬は、いつから始まったのでしょう。僧侶の釋龍音さんが解説します。

※本稿は、釋龍音著「多様化するお墓 尼僧が伝えたい令和の弔い方」(インプレス)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

お寺を守ってくれる檀家はもういない

お寺ではよく檀家、お檀家さんという言葉を使いますが、これは1635年(寛永12年)に江戸幕府が定めた「寺請制度」が発端になったと言われています。

町民や村人が皆、いずれかのお寺に属す=檀家になることで、「寺請証文」という身分証をお寺が発行、それが戸籍のような役割を果たしたので、幕藩体制を維持したい幕府にとっては好都合だったのです。

もともとはキリシタンを取り締まるための制度だったのですが、お坊さんが地域の葬送儀礼に関わるようになると、お寺は次第に住民の旅行、移転、奉公にも関与する役所のような存在になっていきました。紙と墨があって字が書けるというのも当時は大事なポイントだったかもしれません。

出生届や死亡届、婚姻関係など、お寺が住民の動向を把握する仕組み=寺請制度が200年近く続くうち、お寺はある一定の権威を手にしたと思われます。

それが「寺檀関係」です。

その地区に住むすべての住民=檀家からお布施をもらうという関係性の下、ローカル・コミュニティは保持されていました。お寺は、寺子屋で子どもたちに読み書きを教えたり、富くじを融通して寺社の普請をしたり、コミュニティの公共の利益を分かち秩序を保つためにかなり機能していたのではないでしょうか。

この寺請制度は、江戸幕府の終焉とともに終わります。

そして1868年、王政復古を果たした明治政府は祭政一致の政策を進めるために、神道の国教化政策をおこない、「神仏分離令」を発しました。そこで吹き荒れたのが廃仏毀釈(仏教の排斥運動)の嵐です。

新政府の立役者、鹿児島では特に激しかったと聞きますが、私の実家、宮崎県東諸県郡にあるお寺も例外ではありませんでした。

本堂の脇陣には手首が折れた聖徳太子像や如来像が置いてあります。近隣の村は隠れ念仏の里だったとかで、念仏講をしていた村人が役人に叩き壊されるのを恐れて、うちのお寺に仏像を運び込んだとか。

ちなみに浄土真宗では檀家という言葉は使わず、「門徒」と言います。家ごとに括るのではなく、個人対象の呼び方になっています。

もう一つ、社会の授業で習った「地租改正」は1873年(明治6年)におこなわれました。

それに先駆けて、それまで所有していた社寺領(土地)を国家に返上せよと命ずる「社寺領上知令」が発効、境内を除く土地が没収されました。この頃うちのお寺は急激に小さくなったと、祖父は生前、話していました。

しかし普通の人が普通に土地を持てるようになった税制改革かと思いきや、それまでお米で年貢を納めていた農民にとっては、いきなり現金で払えということになり、地租(土地に対して課す租税)が上がって苦しむ人が続出、各地で「地租改正反対一揆」が起こったと言います。本当かどうか知りませんが、私の曽祖父は村のアジテーターだったという伝聞も。

京都の高台寺や清水寺など有名なお寺も広大な領地が召し上げられました。また、奈良の興福寺では僧侶が全員、春日大社の神官になったとか。修験道や陰陽道の行者たちも例外なく打撃を受けたと言います。

けれどこの神仏分離令は長く続きませんでした。政策的に綻びがあったのか、神祇省は1872年(明治5年)に廃止、翌年にはキリスト教の禁止令も解かれました。

美術史家フェノロサが来日し、岡倉天心とともに古美術の調査を始めたのはその5年後のこと。奈良の法隆寺を訪れ、夢殿の救世観音を開帳したのが1884年(明治17年)です。彼がいなかったら文化財保護の概念が日本人に根づくのはもっと後になっていたことでしょう。

 

家制度で生きながらえた寺檀関係

さて、いったんは解体されたかに思えた寺檀関係ですが、生き残りました。

明治時代の民法(旧民法:明治31年~昭和22年施行)が、「家」に基づく考え方で法律を作ったからです。

この法律の中に「家督相続」があります。家督相続とは、被相続人である戸主(家長)が亡くなった場合、長男が独りですべての遺産を受け継ぐこと。この遺産に遺体や遺骨も含まれていて、葬儀などの祭祀(神仏や祖先を祀ること)は長男が担うものと決められたのでした。

この民法によってはからずも寺檀関係が終戦直後まで続くことになったわけですが、お寺と民家の結びつきは何もお葬式だけに限らず、ローカル・コミュニティの一角を構成していました。

私の実家のお寺も祖父が生きていた頃は境内で盆踊り大会があったり、子どもたちがゴム跳びや石けり、まりつきをして遊んでいました。毎日お茶を飲みに来るおじさん、漬け物を届けに来るおばさんもいて、村で初めてテレビを買ったのが祖父だったこともあり、力道山のプロレス中継を見に大勢の男性が庫裡に押しかけたものでした。

話が横道にそれました。

1947年(昭和22年)、日本国憲法の基本原理に基づき、民法は改正されます。改正により、家・戸主の廃止、家督相続の廃止および均等相続の確立、婚姻・相続における女性の地位向上などが約束されました。

また、1951年(昭和26年)施行の「宗教法人法」にも檀家という語句はなく、「家」を単位とする祭祀は法律上、無くなったと言えます。

そうは言っても長男・長女は今でもけっこう「家」の束縛から逃れるのは難しい面があるのではないでしょうか。長男・長女に限りません。今年2022年の後半、ずっと報道が続いている旧統一教会の問題にしても、宗教、信仰というのは家族や親族を否応なく巻き込むものだということがわかります。

民法897条には「系譜・祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定(財産相続)にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する」と書かれています。

この「慣習に従って」というのが曲者で、本家など家柄を重んじる地域では今なお「家」単位でおこなうしきたりも多く、それは個人の自由や自主性を尊び動く人たちの行動様式とは大きな隔たりがあります。

ところで、私たちが普段よく目にする御影石のお墓は戦後しばらくしてから普及したものです。

1区画が1メートル四方くらいの所に四角い墓石があり、それを土台として縦に長い石(竿石と言います)が立てつけてあります。

それに「○○家之墓」と刻字されているのが一般的なお墓だと思うのですが、もし「○○家代々の墓」と書かれていても、せいぜい三代前くらいのご先祖様しか入っていないのでは? と思います。

このタイプのお墓には、土台の下にカロートと呼ばれる遺骨保存スペースが設けられています。カロートの語源は唐櫃とのことですが、櫃(蓋つきの大型の箱)の中に骨壺が置かれるのが通常です。

カロートのスペースには限界があるので、いっぱいになったら古い順からご先祖様の遺骨を粉骨処理し、遺灰にして別の場所に合祀されるコースが多いと思います。

せいぜい三代前と言ったのは、死者を火葬することが当たり前になったのが戦後、日本が豊かになってからで、まだ100年も経っていないからです。

厚生労働省の「墓地、埋葬等に関する法律」、通称「墓埋法」が施行されたのは1948年(昭和23年)のこと。火葬率99.9%の現在では想像もつかないでしょうが、1896年(明治29年)の火葬率はわずか26.8%、6割を超えたのは1960年(昭和35年)のことです(『碑文谷創の葬送基礎講座~火葬の歴史』より)。

火葬の前は何だったのでしょうか?

土葬です。

地面に穴を掘って遺体をそのまま埋め、土をかけて弔う、埋葬です。円墳のような「塚」にしていたかもしれません。学者のなかには「埋め墓」と言う人もいます。

欧米のキリスト教のカトリック教徒は現代でもこのスタイルが主流だと思います。欧米であれほどゾンビ映画が作られるのは、棺桶に死体を入れてそのまま埋めるため、死人が蘇る的なストーリーになるのでしょうね。

実家のお寺の境内にある墓にもカロートはありません。土葬かどうかはわかりませんが、小ぶりの石がひっそり並んでいるだけです。

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土葬と仏壇はセットだった

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