土葬と仏壇はセットだった
火葬率の上昇と高度経済成長が、日本人が各家で立派なお墓をつくるきっかけになったと推察しますが、その前に少し土葬の話をさせてください。
葬送の意識が、土葬と火葬とでは180度変わるからです。
それには衛生意識の変化と葬儀業者の出現が大きく関わっています。
なぜ土葬のことに私が触れたいかというと、インターネットがこれだけ普及してくると、やがて仮想空間とリアルな現実空間の区別がつかない時代がやってくるでしょう。
そうなると、私のような古い人間しかもう祖父の代(明治から昭和を生きた世代)の習俗を知る人がいなくなるだろうと思うからです。民俗学者など研究者はむろん例外ですが、ヒトは意外と忘れやすい生き物で、そのココロもうつろいやすいもの。
長い物に巻かれ臭い物に蓋をして、いろんなことを水に流して生きています。それでいいのですが、飢えや寒さでバタバタと人が死ななくなって、まだ70年くらいしか経っていないことは覚えておきたいと思います。
江戸の町娘が芝居小屋でお目当ての歌舞伎役者に熱を上げていた頃、もしくは堺の町娘が人形浄瑠璃に嬌声をあげていた頃、地方の農村では、縁日と盆・正月のわずかな楽しみを除けば田畑を耕し、質素な毎日をおくっていたことと想像します。
「村八分」という言葉があります。村の掟を破って絶交された村人でも、火事と葬式の二つは例外とするというものです。これを温情と捉えずに、ちょっとハスに構えて見ると、こんなふうに考えられないでしょうか。
土葬で死体を埋める時、いちばん問題になるのは、細菌などが原因で発生する伝染病です。コレラやペストの流行が招いた悲劇を考えれば理解しやすいと思いますが、1858年(安政5年)、幕末に発生したコレラは江戸だけで26万人が亡くなったと言われています。
人々はその怖さをよく知っていて、死体を埋める場所を住居エリアから離れた寂しい場所に移し、そこを共同墓地としました。いわゆる「穢れ」として忌み(避けること)、日常の暮らしと切り離すかたちをとっていたのです。
「埋め墓」にはお葬式の時には行きますが、普段は家の中の仏壇に手を合わせ、ご先祖様を拝んでいました。ですから、仏壇にお骨はありません。
この土葬と共同墓地、仏壇がセットだった時代は昭和まで続きました。葬列は白装束で、殺菌作用のある杉やヒノキの板で作った桶に遺体を納め、それを担いで人里離れた共同墓地へと向かいました。
穴を掘るのは男性の役目で、女性は土間のかまどで煮炊きして賄いをするなど、お葬式はその地区の住民総出で助け合うのが常でした。村八分に遭った村人の手も借りたいほど、労働力として期待されていたのかもしれないのです。
私が高校2年の時、大晦日に祖父が亡くなりました。祖父は当寺21代目の住職で享年82歳、長男の父が喪主を務めました。火葬場も当時、正月三が日は休みだったように記憶していますが、葬儀は年明けにおこないました。1977年(昭和52年)のことです。
湯灌(遺体を棺に納める前にお湯で体を清めること)は身内でおこないましたが、それ以外、喪主の家族はただ本堂で弔問客を迎えるだけで他には何もする必要がありませんでした。
村の人が精進料理などすべて用意してくれ、私たちはただ喪に服していればよかったのです。村は町制になっていましたが、地名には字(あざ)が残っており、「たのもし講」や「観音講」など江戸時代から続く互助組織が生きていました。
精進料理と言っても、今のように葬儀社が手配する会席膳ではなく、質素なものです。お煮〆と、大根と人参の膾、たくあんに握り飯。握り飯はお赤飯でした。
「みな必ず救う。平等に救う」という阿弥陀如来のはからいで、死んだ人はみな仏さまになるのだから心穏やかに見送りましょうと、こぞって南無阿弥陀仏を唱えました。
火葬されて戻ってきたお骨は、本堂の御内陣の片隅に置かれました。そして初盆の時に、村はずれにある共同墓地に持っていきました。門徒の人もぞろぞろ盆提灯を手に持ってお墓の周りに集まり、読経のあと納骨。夜も更けてくると、盆提灯が揺れるさまは、遠目には火玉に見えるだろうなと思いました。
その場所は今では雑木林になっているので確かめようもありませんが、古くからある町名ゆえ「塚」かもしれず、土葬も火葬も一緒くたに合祀されていた可能性があります。深沢七郎の『楢山節考』の世界のように陰気なムードが漂い、滅多に近寄らない場所でした。
数年後、共同墓地が別の小高い丘の上に新設されて移った際、先祖のお墓も引っ越しました。墓碑には江戸や明治の年号が見えます。
引っ越しに伴い、もう一基、父が新たにお墓を建て、その墓石のカロートにまとめて先祖のお骨も入れました。1980年代のことです。
新しいお墓は、当時の町政によるものなのか、みな同じ規格になっています。明るく陽のあたる場所で、いつ行っても花を供えに来る人と出くわします。