「動物一匹救っても、世界は変わらない。でもその動物にとっての世界は、まったく違うものになる」フランスでこの言葉にはじめて出会ったのは、 2011年の夏。トラやライオンなどサーカスで傷ついた動物たちを保護する動物園「トンガ 受け容れの地」へ取材したときだ。あるとき、ふと思った。世界が変わるのは動物だけではなく、その動物に関わる人間も同じなのでは? と。
16年前から、猫と暮らすことになった我が家。もともと猫は好きだったが、「猫と暮らそう!」と積極的に準備していたわけではない。だから路上で出会った一匹の猫を連れ帰ったのも偶然と成り行きだったが、いまではなくてはならない存在だ。
猫の「テンコ」視点で綴る家族の物語、本稿ではテンコとヨッパライ夫婦が出会い、家に連れ帰るまでのエピソードを紹介する。
※本稿は、堀 晶代・著『佐々木テンコは猫ですよ』(辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
さまよう猫、素通りする人たち
暑い、とにかく、暑い。
いちばん暑いときって、見あげた空の色が黄色を通りこして、まっしろに見える。だからとにかく日陰をさがす。日陰でずっとガマンしていたら、ようやくまっしろな空もすこしずつ青っぽく変わっていく。
それを「夕方から夜へ」というのらしいのだけれど、そんなくり返しは、わたしがこの場所に来てからどれくらいあったのかなぁ。ふぅ。でも暑いってことだけは、いつもいっしょ。空の色がどれだけ変わっても、歩きはじめると足の裏はすぐに熱くなるし、ねっとりとした空気はとっても重い。
空がまっ暗な闇に見えることはない。だってわたしは猫だから。でも、なんとなく、夜の空を見ていると寂しくなる。まずはヒンヤリとした場所をみつけなきゃ。じゃあ、どっちに行けばよいのやら。まったくまったくわからない。
なんの困ることもないお部屋にいさせてくれたのはヒトだけれど、この場所にわたしや兄弟たちをほうり出したのもおなじヒト。
ヒトってなんなのかな。
わたしが隠れている場所のすぐちかくには、たくさんのヒトがそこを通らなければならない「駅」というものがある。
朝はやくから駅へつづく一本道を突進していくヒトたちは、どう見ても、「いそいでいるヒトたち」。暑いといってもちょっとだけ涼しいのが「朝」だから、わたしがすこし勇気を出して、細い通りに姿を現してみても、誰もわたしを見ようともしない。というか、見る余裕もなさそう。
それが変わってくるのが、夕方あたりから。そのころにはありとあらゆるところから、プ~ンと美味しそうな匂いがただよってくる。駅からはき出されてくるヒトたちも、「突進!」って感じじゃない。
夕方になるすこしまえ、朝とはちがう感じのヒトたちであふれるよりも先に、ひとりの優しい女のヒトが現れて、めだたない場所でわたしにゴハンをあげようとしてくれる。でもそのヒトを待っている猫たちはほかにたくさんいるから、けっきょく、いつも食いっぱぐれる。
朝と夕方で見るヒトたちは、まったくちがうヒトたちなのかな。それとも朝に突進していたヒトたちは、夕方になるとちがうヒトたちになってしまうのかな。
青っぽい空の下では、よく「猫ちゃん」と声をかけられる。
かわいい 猫ちゃん
りっぱな 猫ちゃん
おおきな 猫ちゃん
この場所にいればいるほど、もしかしたら酷い目にあうのかも? という、いままで感じたことがない不安はどんどんと増えていくし、それよりもまえに、暑いだけじゃなくって、お腹も空いているのか空いていないのか、わからないくらいに、空いているし。のどもカラカラ。
だから夕方から声をかけてくれるゆるい感じのヒトたちに、なんとなく期待してしまう。でもわたしがいま一番ほしいもの、ゴハンとか水とかは、誰もくれない。
声をかけてくれるだけの、ゆるくて陽気なヒトたちを「ヨッパライ」というのだとか。わたしをなでようとするヨッパライもいるけれど、最後は「元気でね~」って、去ってしまう。
それからも、空の色が変わるのを、なんかい見たのかな。なんだか、もう、どうでもよくなってきた。
ヨッパライ夫婦との出会い
また夜。あいかわらず、暑い。とくにこの夜は暑い。
駅からはもう誰も、はき出されることがない、夜のなかでも、いちばん夜だというのに、すこしでも暑くない場所を、まだみつけられない。
ちいさな通りから手をつないだ男のヒトと女のヒトが、こちらに向かってきた。手をつないでいるからこそ、どっちかが転ばないでいられるような、でもいちおうまえには歩いている。
このヨロヨロとしながらも楽しそうな感じ。もう、これはどう見てもヨッパライだ。とくにヨロヨロしている女のヒトが「あ、猫!」と言った。
ききなれた言葉。ヨッパライはだいだい「猫ちゃん!」って言ってから近づいてくる。でもその「あ、猫!」って言いかたが、まるで見知っている猫にまた会ったかのような、それとも、わたしのことをよく知っているの? と思うくらいに、なれなれしい。
なれなれしすぎて、いつもだったらヒトが近づいてくると、ちょっとは離れてみるのだけれど、そんな気がうせた。
目のまえに、その女のヒトがいる。女のヒトはわたしをじいっと見おろしてから、男のヒトに、
「う~ん、ラン。いますぐ、駅前のコンビニで、なんでもいいから猫缶ひとつ、買ってきて」と言った。
ランと呼ばれたヒトは、さっきまでのヨロヨロとした足取りがウソみたいに、どこかへ走っていった。きゅうに手をはなされた女のヒトは、かがむようにすこし前のめりになった。
あっという間に戻ってきたランは、猫缶をひとつ、手にしていた。女のヒトは、猫缶を受けとってパシッとふたを開けるやいなや、ビックリするような乱暴さで、ガンっ! と地面に猫缶のなかみをぶちまけた。
「ちょ、ちょっと、待てよ、プ。ここは駐輪所だよ。いくらなんでも、それは不潔だよ」
プと呼ばれたヒトは、
「猫缶にこの子が顔を突っ込んだら、顔を缶のふちで切ってしまうかもしれないでしょ。それに缶を残して帰ったら、無責任なエサやりって言われて、ここらへんにいる他のノラたちが、よけいに住みにくくなる。食べなかったら、ティッシュできれいに拭きとって、缶を撤収して帰る」
あれほど待ちこがれたゴハンなのに、お腹が空きすぎて、うまく食べられない。食べかたを忘れたのかな? って思うくらいに、うまく食べられない。
プがグラグラしながら、どうにかしゃがみこんで、わたしを見ている。
「この子、蚤だらけだよ」
やっとぜんぶを食べおわると、不思議なことに、もっとお腹が空いてきた。プが言った。
「ラン、猫缶、もう一個、お願い」
ランがまた、どこかに走っていって、猫缶を手に戻ってきた。プはさっきよりはすこし丁寧に、猫缶のなかみを地面においた。やっぱりゆっくりとしか食べられなかったけれど、今度はちゃんと、うまく食べることができた。
しゃがみこんでいるプが話している。
「こんな時間に逃げないような猫が、お腹を空かしていて、蚤だらけって、ふつうだったらヘンだよ」
ふたつめを食べおわって見あげると、ランとプの顔が、空が見えないくらいに近くにあって、うん、うんとうなずきあっている。