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「正義」とはトラウマのようなものだ

斎藤環(精神科医)

2008年11月10日 公開 2022年11月07日 更新

『ダークナイト』と「根拠なき悪」

 今回取り上げるのは映画作品『ダークナイト』である。

  本作はアメリカン・コミックのヒーロー、バットマンを主人公として80年代以降に制作された実写映画シリーズの、第6作目にあたる。なお、第5作目の『バットマンビギンズ』(2005)からは、クリストファー・ノーランが監督している。

  『ダークナイト』は、日本での興行成績はいま1つ伸び悩んだようだが、アメリカでは近年まれにみる大ヒット作となった。公開からわずか4週で北米興収4億 4160万ドルという驚異的な数字を上げ、さまざまな最短記録を更新した。2008年9月現在、歴代興収第1位の『タイタニック』に迫る勢いを見せてい る。

  日本でいえば仮面ライダーシリーズの劇場作品がランキングのトップに君臨し続けるような事態が起きているわけで、宮崎アニメなどを別とにすれば、ちょっと 想像しにくい話だ。しかしそれも、作品を目の当たりにすれば納得がいく。『ダークナイト』は、もはやお子様向けのコミック・ムービーの域をはみ出した、完 全に大人向けの作品なのである。

  以下、あまりネタバレに配慮せずに話を進めるので、未見の方は注意されたい。

  バットマンはアメリカン・コミックスのなかでも異色のヒーローだ。彼はスーパーマンのように異星人でもなければ、スパイダーマンのような超能力ももたな い。莫大な資産と鋭い知性、鍛え抜かれた強靭な肉体をもつ、ブルース・ウェインという一般人にすぎない。彼はお手製の装甲服バットスーツに身を固め、巨大 なバットモービルを駆って、架空の都市ゴッサム・シティを守るため、あくまでもボランティア活動として悪と戦う。これが本作の基本設定である。

  誰もが指摘するように、本作の最大の功績は、まれにみる悪の化身にして怪物的存在であるジョーカーを完璧に造形し得たことだろう。ジョーカーはバットマ ン・シリーズのもうひとりの主役であり、最も人気の高いバットマンの敵役だ。初期シリーズのジョーカーはジャック・ニコルソンの当たり役として有名だが、 本作が実質的な遺作となった若手俳優ヒース・レジャーの演技はそれを完全に過去のものにとした。アカデミー主演男優賞にもノミネートされた『ブロークバッ ク・マウンテン』の抑制された演技とは別人のようなキレた怪演ぶりで、あらためてその死が惜しまれる。

  私はこれまで、映画に現れた悪の造形として、『羊たちの沈黙』におけるレクター博士を最高のものと考えていた。完全な知性をもちながら、まったく内省を欠 いた存在。彼の「悪」には根拠というものがない。それゆえハンニバル・レクターには「ためらい」が存在しない。これは言い換えるなら、「内省」と「根拠」 を欠いた存在は、その存在自体が「悪」にほかならない、という意味でもある。

  しかし、『羊たち~』の続編小説『ハンニバル』を読んで、私はいたく失望した。この小説にはレクターの「根拠」が書き込まれているのだ。

  リトアニア生まれのレクターには、愛する妹ミーシャがいた。第2次大戦中にレクター一家は別荘へ避難するが、ドイツ軍とロシア軍との戦闘に巻き込まれて両 親は死亡する。その後リトアニアの対独協力者たちと別荘で暮らしていたが、食料が尽き、衰弱していたミーシャは殺され、食料にされてしまう。このトラウマ こそが、怪物レクターを作り出したというのだ(このエピソードは、映画『ハンニバル・ライジング』に描かれている)。

  ここには1980~90年代にハリウッド映画を席巻した、悪しき「心理学化」(もしくは「心理主義化」)の残滓がくすぶっている。そう、人はトラウマゆえ に怪物化し、またどんな怪物も、その根拠となるトラウマを隠しもっている。『ランボー』(1982)しかり、『グッド・ウィル・ハンティング』 (1997)しかり。

  しかし、この種の図式的な心理主義は、私のようなすれっからしの映画ファンにとって、最も興醒めな要素の1つでもある。いや、このところめっきりその手の映画が減ったところをみると、そう感じていたのは私ばかりではなかったのだろう。

  しかし私は、ジョーカーが自分の頬まで避けた口元の傷の由来を語りはじめたとき、久々に嫌な予感を覚えた。ああ、またしてもハリウッド流心理主義のご託宣か。

  しかし、その予感は小気味よく裏切られることになる。

  第1の「告白」でジョーカーは、子供のころの凄惨な思い出を語る。酒乱の父親が母を刃物で刺し殺し、その場で自分も父親に口元を裂かれたのだ。しかし第2 の「告白」では、話がまるで違う。その傷は、借金がかさんで身も心も傷ついた妻を笑わせるために、自ら切り裂いてみせた、というのだ。一体、どちらが真実 なのか。

  もちろん、どちらもデタラメだ。強いていえば、ジョーカーはここで、自らの悪意がちゃちなトラウマなどに根拠づけられるものではないことを高らかに宣言しているのだ。

  実際、ジョーカーには根拠がない。彼には指紋やDNAのレヴェルに至るまで、あらゆる過去の痕跡がない。彼には世俗的な欲望すらない。自ら金にも権力にも 興味がないとうそぶき、札束を積み上げて火を放ちさえする。彼が望むのは、人々が--とりわけバットマンが--その良心ゆえに葛藤し、苦悶する姿を眺める ことのみ。これほど純粋に無根拠な悪が、かつて描かれたことがあっただろうか。少なくとも、ハリウッドのメジャー大作では前例がないように思われる。

「正義」とトラウマ

 本作でジョーカーは、バットマンにとっての、鏡のような存在として描かれている。

  映画第1作でも、バットマンの両親をジョーカーが殺し、バットマンとの銃撃戦で化学薬品槽に落ちて顔面に火傷を負ったことがジョーカーの誕生につながって いる(本作ではこの設定は使われていない)。バットマンとジョーカーは、最初から相互に根拠づけあうような関係に置かれているのだ。

  本作におけるジョーカーは、バットマンに次々と困難な選択を突きつける。最初の選択は「正体を明かさなければ、毎日ひとりずつ市民を殺す」。これにはじまり、バットマンの存在意義を根底から突き崩すような選択が次々と投げかけられる。

  最初に記したように、バットマンことブルース・ウェインの活動は、完全に自警団的なものだ。警察から敵視されることからもわかるとおり、彼の活動は非合法 であり犯罪である。だからこそ「ダークナイト(闇の騎士)」と呼ばれるのだ。その活動は、大富豪の顔をもつブルースが、自らが筆頭株主である企業の金を横 領することで成り立っている。もちろんその行為も犯罪であり、本作でもその不審な資金源を会計士に暴露されそうになっている。

  この矛盾は、ひとりバットマンの抱える矛盾ではない。フィクションに登場するほとんどの「正義の味方」、そうスーパーマンからスパイダーマン、あるいはウ ルトラマンから仮面ライダーに至るまでのヒーローたちが、根源的に抱える矛盾でもある。その矛盾は「子供向け」ゆえに気づかれないのではない。敵がしばし ば、合法的にはとうてい太刀打ちできそうにない絶対悪として描かれるため気づかれにくいだけだ。

  そう考えるなら、バットマンとジョーカーの鏡像関係はいっそうはっきりするだろう。バットマンが存在しなければ、ジョーカーもまた存在しない(あるいは、 無数に出現する「にせバットマン」も)。実際、ジョーカーは「お前がいなけりゃ、俺はただのチンピラだ」と自覚している。

  そう、正義と悪は合わせ鏡なのだ。彼らの関係から誰もが容易に連想するのは、頼まれもしないのに世界の自警団を買って出る超大国アメリカと、悪のテロリス ト・ネットワーク、アルカイーダの関係だ。そもそもアルカイーダの発端は、ソ連のアフガニスタン侵攻に際してCIAが組織したともいわれている。やはり正 義と悪は同根なのだ。

  悪はその根源的な無根拠性ゆえに、時に正義の存在を、自らの根拠とすることもできる。ならば正義には根拠があるのだろうか。

  バットマンの自警団活動には根拠がある。彼は少年時代に強盗に両親を射殺された。彼はそうした犯罪への怒りゆえに、自らの肉体を鍛え上げ、法を犯してまで悪と戦い続けている。そう、彼の正義には、少年時代のトラウマという根拠が存在したのだ。

  そもそも正義とは、トラウマのようなものではないのか? われわれにこの問いをつきつけたのは、最近ではニール・ジョーダン監督、ジョディ・フォスター主 演の映画『ブレイブ ワン (The Brave One)』(2007)だった(本論の趣旨からラストシーンに触れないわけにはいかないので、未見の方はご注意下さい)。

  本作も一種の自警団ものである。ニューヨークでラジオのパーソナリティをしている主人公エリカは、恋人と公園を散歩中に暴漢に襲われ、恋人は殺され、自ら も重症を負う。その後遅々として進まない警察の捜査に不満を覚え、エリカは自ら不法に銃を入手し、彼らを襲った犯人を捜し出そうとする。

  しかし復讐の過程でエリカは複数の事件に巻き込まれ、その結果、犯人を射殺しては制裁を下す役回りを引き受けざるを得なくなる。エリカの存在は「謎の執行人」として有名になり、その活動を支持する声も高まっていく。

  捜査の過程で親しくなり、途中からエリカがを「謎の執行人ではないか」と疑いはじめる刑事の存在。結局、彼によって彼女は「救われる」ことになる。

  ラスト、エリカはついに主犯を追い詰め射殺しようとする。そこへくだんの刑事が駆けつけ、「殺すなら合法的に登録された銃を使え」といいつつ自分の銃を渡 す。エリカは銃を受け取るとためらいなく犯人を射殺する。刑事は彼女の犯行を擬装するために、その銃で自分を撃つように命じ、エリカは泣きながら刑事の肩 を撃つ。そして銃を捨てて逃走する。

  このラストシーンについて賛否の声が湧き上がった作品としてご記憶の方も多いことだろう。私も、このラストに心から納得がいったわけではない。しかしこのシーンを「セラピー」として読むなら、こういうことも「あり」だろう、という立場を取る。

  エリカは暴行のトラウマから、復讐という症状に取り憑かれている。しかし復讐を貫徹させただけでは彼女の症状は終わらない。なぜならエリカは、「謎の執行 人」役を演じつつ殺人を繰り返すことで、さらに心を蝕まれているからだ。殺人行為の中毒になってしまい、引き金を引くことにためらいがもてなくなってし まっている。暴力は、たとえ「正義」を装っていたとしても、躊躇やためらいを欠いてしまったら「人格障害」と変わらない。そう、本作のエリカは復讐に取り 憑かれるあまり、「正義の味方」という症状を病むに至ってしまった「病人」なのだ。

  それゆえエリカに自分を撃たせるという刑事の判断はあまりにも適切だ。どれほど殺人に麻痺した手でも、親しい相手を傷つける場合には震えるだろう。彼の判 断は正しかった。エリカは彼を撃ち、撃つことで殺人への躊躇や葛藤を取り戻す。かくしてエリカは、「謎の執行人」と決別した。『ブレイブワン』という映画 が興味深いのは、正義を懐疑するのみならず、それを一種の治療対象(つまり病気)として扱う態度がかいま見えるためだ。この描写があればこそ、私はかろう じて本作を肯定できる。

正義のリアル

 ところで『ブレイブワン』の設定を聞いて、漫画『デスノート』を連想した人も多かったのではない か。細かい説明は不要だろうが、相手の名前を記すことでその相手を殺すことができる「デスノート」を手にした少年・夜神月(やがみらいと)が、この世から 悪を撲滅すべく、次々と殺人を手がけはじめるのが物語の発端である。

  彼の行為こそは、まさに多くの自警団ヒーローがとっている行動にほかならない。しかしなぜか、『デスノート』における夜神月の存在は、正義のヒーローならぬ、狡知にたけた邪悪な少年として描かれる。

  これは『デスノート』という手段によるところも大きいだろう。正面から体を張って敵と戦わずとも、顔と名前さえわかれば、ほぼ確実に相手を殺すことができ る。いわば夜神月+「デスノート」は、悪がまともに立ち向かったら確実に潰されてしまうほど強大な「正義」なのだ。ここまで描かれて初めてわかったこと、 それは「強大すぎる正義」は、もはや「悪」と見分けがつかない、ということだ。

  『デスノート』は、ゼロ年代の漫画作品中最大の問題作の1つであり、その人気も圧倒的だった。アニメ化はもちろん映画化やスピンアウトスピンオフ作品まで 制作され、軒並みヒットしている。漫画としての質が高いのはもちろんだが、こうした特異な思想を秘めた作品が人気を集めるという点は、なにやら象徴的です らある。

  今回私は、『ダークナイト』を発端として、『ブレイブワン』や『デスノート』といった作品が「正義」をどのように扱ってきたかを概観してみた。もはやフィ クションのなかですら、素朴な倫理観である「正義」の耐用年数が切れはじめているということ。それは何を意味するか。

  たまたま「正義」を演ずることになった主人公は、夜神月のように正義を自明のごとく取り込んで人格障害化するか、エリカのように正義に取り憑かれて病むか、バットマンのように葛藤しつつダークサイドへと逃げ込むしかない。

  このような正義の位相こそが、現代の「リアル」なのである。

  もはや正義に単純な希望を託すことはできない。それはもはや、ノスタルジーの身ぶりとしてしかありえず、その意味で希望は過去にしかない、のかもしれない。

  しかし「9.11」以後の世界において、「正義」をこのように相対化し、懐疑してみる姿勢はもはや避けることはできない。それはいささか寂しいことかもし れないが、認識としては前進なのだから。そこから先に何が見えるかはまだわからない。あるいは『ダークナイト』の続編に、そのヒントが描かれるのかもしれ ない。しかし忘れずにおこう。素晴らしい続編は、われわれ自身が「その先」への想像力を鍛えておくことで、初めて与えられるであろう、ということを。

著者紹介

斎藤 環(さいとう たまき)

精神科医

筆者略歴:1961年岩手県生まれ。筑波大学医学専門学群卒業。医学博士。現在、爽風会佐々木病院精神科診療部長。専門は思春期、青年期の精神病理、および病跡学。著書に『文脈病』(青土社)『社会的ひきこもり』(PHP研究所)『生き延びるためのラカン』(バジリコ)『文学の断層』(朝日新聞出版)など多数。

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