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登園中、国道に飛び出したダウン症の弟...泣きじゃくる母が繰り返した「だいじょうぶ」

岸田奈美(作家)

2024年07月01日 公開 2024年12月16日 更新

2023年6月、ある動画がSNSで話題になりました。動画では、警報機が鳴り響く中、線路に降り立った人に、母親とおぼしき人が駆け寄り、抱き締めて、落ち着かせようとする様子が映っていました。列車に遅れが生じたことへ批判が集まっていたSNSに、作家の岸田奈美さんは、ある文章を投稿します。それは、『国道沿いで、だいじょうぶ100回』というエッセイでした。

※本稿は、岸田奈美著『国道沿いで、だいじょうぶ100回』(小学館)から一部抜粋・編集したものです。

 

国道沿いで、だいじょうぶ100回

子どものころ、人気の遊び歌があった。

「奈美ちゃん、奈美ちゃん、どっこでしょう〜♪」

保育園の先生が歌う。

「ここでっす、ここでっす、ここにいます〜っ♪」

子どもらは大喜びで、返事をする。母が歌う。

「良太くん、良太くん、どっこでしょう〜♪」

返事はない。弟はいつもどこかにいたけど、いつもここにはいなかった。

ジッとしてられない弟だった。だまってられない弟だった。保育園でも、小学校でも、歩道でも、公園でも、むちゃくちゃに跳ねまわっていた。軌道がまったく読めないスーパーボールみたいだ。捕まえられるのは、母だけ。弟を取り押さえるときに発揮する、母の爆発的な初速は、ラグビー選手のようだった。

保育園へ行く途中のことだ。

弟が国道へ飛び出した。

一瞬だった。母の足の間を急回転ですり抜け、彼にしか見えないなにかを追って、自由な魂みたく駆けてった。道路のド真ん中で、弟はピタッと立ち止まる。凍りついていた母の時間が動いた。声もかれる絶叫だった。母は死ぬ覚悟で体を投げ出し、弟の服のフードをガッとつかむと、歩道へと引きずり戻した。

大型トラックが、轟音とともに走り去っていった。あと5秒、遅れていたらだめだった。母は地面にへたりこみ、震えながら、弟を抱きしめて放さなかった。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」

泣きじゃくりながら母が繰り返していた言葉を、わたしは忘れない。

 

国道沿いで、泣いている母に会えるなら...

幼かったわたしには、知らないことがたくさんあった。

弟がダウン症で生まれてきたこと。
身体がむずむずするから、手をつなぎたがらないこと。
フード付きの服ばかり着ていたのは、命綱だということ。
必死で弟の命を守ろうとする母の姿が、近所で不思議そうな視線にさらされていたこと。
弟がおもちゃを持って公園に行くと、親にそっと手を引かれて、離れてく子どもたちがいたこと。

療育の先生の「愛が足りない」「しつけがなってない」という言葉で、帰り道に母が唇をかみしめながら、弟に頰をよせて泣いていたこと。

どんなに疲れ果てても、悔しくても、母が外で笑顔を絶やさなかったのは、弟を嫌わないでいてくれる人が、弟の命を守ってくれる人が、どうかひとりでも増えますようにという、祈りだったこと。

そんな苦労、わたしや弟は、なにひとつ知らなくていいように「奈美ちゃんと良太が生きてるだけで、ママはうれしい」と、何度も何度も、語り続けてくれたこと。

わたしは、なんにも知らなくて。
いま、あの日に戻れたら。国道沿いで、へたりこんで、泣いている母に会えたら。

「だいじょうぶ」って、100回言ったる。
100回言いながら、100回背中をなでる。
だいじょうぶ。
だいじょうぶやで。
なーんも、まちがってない。
良太を愛してることも、愛したいことも、ちゃんと知ってる。

だいじょうぶ。

たいへんなことも、みじめなことも、泣けてくることも、あるやろうね。言葉にできない愛おしさが、他の人には伝わらないことほど、悔しいことってあらへんよね。胸が潰れそうな痛みなんて、良太は知らんでええよね。

だいじょうぶ。

良太がピャーッて走り出して、良太の目にしか映らない美しい世界を、良太が夢中で追いかけられるのは、あなたが命を守ってくれたおかげや。良太はきっと、大切ななにかを追っかけてるだけやって、信じてるあなたはすごいんや。大切な人が大切にしているものを、大切にできるっていうのは、それだけで愛や。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。
良太も、ぜったいわかってる。
あなたから受け取ったものを。
だいじょうぶ。
なんもまちがってないよ。
なんも謝ることもないよ。

いや、謝らなあかんことも、ちょっとあるかもね。

保育園で飼ってる亀を、何度キツく叱っても、良太は円盤みたいに投げようとしてた。あれは肝冷えた。遊んであげてるつもりらしいけど、なかなか、加減がわからへんのよな。せやけど、亀は投げられへんかったし、だいじょうぶ。亀は万年、だいじょうぶでんねん。

「亀がね......良太くんの足音がすると、サササーッて逃げていくんですよ」

保育園の先生、びっくりしとったね。危機感で亀が進化したってね。そんなんばっかで、謝り疲れたと思うから、わたしがぜんぶ謝ったるよ。謝るのは、あなたにしかできへんことじゃない。

ええねん、ええねん。わたしは謝るのなんて、得意やから。

これ、世渡りの裏技やねんけど、他人が謝るほうが、丸く収まることもあんねん。わたしからもよう言うて聞かせますさかい、堪忍なって。あれや、あれ。ひとりで「ごめんな」って背負わんでも、みんなで「ごめんな」をわけわけしたら、ええねん。

待たされるのもな、わたしはめちゃめちゃ得意。全日本待たされ選手権大会があったら、強化選手まちがいなし。

だいじょうぶ。

良太のせいで、バスの到着が遅れても、授業はじまるのが遅れても、ええねん、ええねん。人生は長いねん。わたしみたいなポンコツでよかったら、なんぼでも待たしたって。待つだけで役に立てるんやから。

だいじょうぶ。
だいじょうぶって、言わせてほしい。

鬼ばかりの世間を、渡っていかなあかん人生やろ。誰かに胸張って、だいじょうぶって言えることがな、わたし、うれしい。余裕あって、優しい自分でおらせてくれて、おおきに! 徳つみましたわ! ってな、こっちが言いたいぐらいやろ。

あの時、あなたは、良太を抱きしめとったね。「無事でよかった」でも、「なにしてんねん」でもなくて。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」って、言い聞かせとったね。

今はね、わかるよ。

良太は、一生懸命に、生きてるんやもん。それだけでだいじょうぶやって、言ってあげたいよね。誰かに指さされても、クラクション鳴らされても、きみの人生はなにひとつ損なわれないって、約束してあげたいよね。

だいじょうぶ。

良太が駆け抜けていったのは、あなたの愛をね、ちゃんと受け取ってるからやと思うねん。そういう愛を背中に感じるとね、子どもは自分を信じて、迷わず駆け抜けられるんですわ。よりにもよって前が国道なんは、危なかったけども、人生という名の原っぱやったら、駆け抜けていったもん勝ち。

だいじょうぶ。

根拠のない自信を、わたしが心の底から放てるのは、だいじょうぶって言うてるあなたを、この目で見たから。

あの時、良太を抱きしめてくれて、ありがとう。
良太に「だいじょうぶ」って言ってやってくれて、ありがとう。
わたし、良太が生きてて、うれしい。
こんなわたしを、頼ってくれる良太が生きてて、うれしい。
あなたのおかげで、ちょっと、この世界は優しくなっとる。
もうだいじょうぶ。
ほんまに、ずーっと、ぜったいに、だいじょうぶに、する。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。

泣くこたあ、ないない。100回言ったる。わたしが、あの人にも言ったる。

 

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