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なぜ古代オリンピックは1200年近く続いた? 背景にあるギリシャ人の“厚いスポーツ信仰”

マシュー・サイド(ライター),永盛鷹司 (翻訳)

2024年08月09日 公開

紀元前776年に始まり、1200年近くにわたって中断なく続いた古代オリンピック。アリストファネスやプラトンなどの偉人たちも観戦に訪れたといいます。

なぜスポーツはこれほどまでに、私たちを魅了するのでしょうか?古代オリンピックの歴史を知ると、変わらない共通点が浮かび上がってきます。

※本稿は『勝者の科学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。

 

紀元前776年に始まり、1200年近く続いた

古代オリンピックの規模は驚異的だった。歴史家によると、それは紀元前776年に始まり、中断なく1200年近く続いた。それは飢饉も、疫病も、知識や道徳の大変動も、そしてほとんど止むことがなかった戦争も乗り越えた。オリンピックは実質的に、古代と前近代を結びつける一貫した主導的概念であった。

古代オリンピックは、なぜ一度の中止もなく続いたのだろうか(近代オリンピックはすでに戦争で中止になったことがある)。歴史家たちはその答えを見つけられずにいる。答えの一つは、異教信仰の統率力かもしれない。競技はゼウスを称え、その怒りを鎮めるために必要だとみなされていた。古代世界の七不思議の一つであるオリンピアのゼウス像は、競技場からわずか数ヤード(数メートル)のところに立っていて、その目は威圧感をたたえてかすかに輝いていたという。

もう一つの理由は、単純な政治的強制力かもしれない。アテネの民主主義は、金で雇われた軍隊ではなく投票権のある民衆が戦い出資するという形をとり、戦争における軍事的基盤を変えた。さまざまな体育場で運動能力と肉体的な強さが育てられたのは、部分的には肉体の美しさの追求と、当時主流だった同性にエロティシズムを感じる文化のためだったが、夷狄(いてき)を追い払える戦闘力を築くためでもあった。

しかし何よりも、古代オリンピックが長く続いたのは、競走、ヒロイズム、ドラマといった、今日でも残るスポーツの諸要素に対する信仰があったからだ。

世界で最大級に立派なアスリートたちが偉大な賞をかけてスポーツで競う様子を見るときの感情の高まりを称えたのは詩人だけではない。哲学者や歴史家、政治家も心を奪われた。聖者であったテュアナのアポロニオスはこう述べたという。

「天に誓って言おう! 神々にとってこれほど快く、愛おしいものは人の世にないと」

このような視点で見ると、現代のスポーツも現代特有の現象とは言えなくなるだろう。商業主義的な道具やテレビのカメラを取り払えば、それは古代までさかのぼる儀式の、最新の形態にすぎない。何の競技であれ、それは人間であることの条件に等しいだろう。

ほかの何よりもまさにこの理由で、スポーツは一貫して神話化されてきた。ヴィクトリア朝時代の人々はスポーツが人格を涵養すると論じた。今日の政治家は、スポーツはあらゆる社会的病理の万能薬だと主張する。

だが、ギリシャ人ほどスポーツを熱心に布教した人たちはいない。ソクラテスは、スポーツの修練が徳をつくると論じた。プラトンは、スポーツは誘惑に対する抵抗力を強めると論じた。これらの主張にエビデンスがあるか否かは、今日と同じように重要ではない。スポーツの道徳的、社会的、政治的重要性は、昔もいまも、必要な神話であった。

 

勝利の裏にあるもの

古代オリンピックを完全に終わらせたのはキリスト教だ。ローマ皇帝テオドシウス1世が異教の偶像崇拝を批判し、祭典は禁止された。スポーツ界の中心地はオリンピアからローマへと移り、競われるのは陸上競技から、コロッセオ(剣闘士試合)やチルコ・マッシモ(戦車競技)で知られる、より命に関わる競技になった。スポーツは血に飢えた回り道をしたのだ。

だが、オリンピアの神域を歩いて古代の遺跡を観察すると、古代と現代の間のへその緒のような結びつきを発見できる。競技場の入口には、多くの偉大なアスリートたちが像で記念されている。競技に勝つことはその人自身の栄誉のみならず、その人の故郷の町の栄誉でもあった。今日もそうであるように、勝利は政治的な宣伝の重要な道具であった。そうならないように、多くの都市がエリートの訓練場に公金を投じていた。

その結果、プロフェッショナリズムが出てくるのは避けられなかった。近代オリンピックの優勝者に賞金がないように、古代の勝者にもオリーブの冠しか与えられなかった。だが、勝利が持つ商業的な影響力はとても大きかった。勝者は故郷の町からの賞金を期待できたし、大会の運営者にとっては、もっと低級の祭典に参加してもらう金銭的動機にもなった。

そのため、勝者へのへつらいは類を見ないほど激しかった。アクラガスのエクサイネトスが紀元前412年に短距離走で二度目の優勝を果たしたとき、彼は300台の戦車に護送されてシチリア島に帰り、彼の入場のために都市の外壁の一部が壊されたという。

ところが、大きな報酬は大きな誘惑にもなる。当時は違法薬物は存在しなかったが、古代オリンピックでもさまざまな方法で不正が見られた。なかでも目立ってはびこっていたのが八百長だ。

最初に記録された事例は紀元前388年で、テッサリアのエウポルスが3人のボクサーに賄賂を渡して負けるように頼んだという。それ以降、不正には巨額の罰金が科され、その収入で警告を発するための像がつくられた。その多くは、競技場跡に入る通路に今日も残っている。ある像のもとには「オリンピアで勝利するのは金ではなく足の速さと体の強さだ」という警告が記されている。

他方で、古代オリンピックと近代オリンピックには違いもある。その最も顕著な例は、オリンピアの男子選手たちは裸で競技しなければならなかったことだ(女性は競技への参加も観戦も許されていなかった)。これは部分的には、走者が服につまずかないようにという現実的な理由からだったが、究極的には、同性にエロティシズムを感じる文化の表れでもあった。ギリシャの社会は男色を推奨しており、年上の男性が性的な獲物を求めて体育場をうろついていることもあったのだ。

裸であることは、ギリシャの歴史を通じて保守主義と戦い続けた民主主義的な感覚への連帯の印でもあった。衣服や、その他の階級を示すものを取り去り、貴族と下層階級が平等に競い合うのだ。審判の前では、万人が平等だった。

だが、近代のオリンピックと同様、能力主義の考え方は簡単に誇張された。フルタイムで訓練できる財力がある人だけが成功のチャンスをつかめた。勝利すれば多額の報酬がもらえることでこの基本原則は曲げられたが、仕事を休んで一定期間集中してトレーニングをするのは貧しい人にとっては大きなリスクだった。

実際、身分による特権は見えない壁となっていた。勝利の冠は社会の裕福な層に集中していたのだ。ほぼすべての競技で裕福な国がメダルをたくさん取っている今日と同じ構図である。

 

人間が生きている限り、スポーツは存在する

聖火の点火の儀式の最高潮は、聖火が人力でアテネのパナシナイコスタジアムに運ばれる場面だろう。そこではロンドンへの引き渡しのセレモニーがおこなわれる。聖火がイギリスに到着すると、人口の9割が一時間以内に到着できる(と宣伝されている)ルートを回る。何千人もの人が見物に繰り出すとされている。

ギリシャ人はもちろん、オリンピックという運動の震源地にいることを誇りに思っている。何百人もの人がリハーサルを見ていたし、さらに多くの人が本番を見るだろう。

だが、ギリシャ人は明白で苦しい皮肉に見舞われている。国際オリンピック委員会は、近代オリンピックをその生みの親である偉大な文明と結びつけるために、オリンピアが持つ象徴性を大いに必要としている。古代ギリシャは世界のなかで類を見ない重要性を持っている。それとのつながりをアピールすることは、近代オリンピックに正統性と強力な意味を与える。

しかし、今日のギリシャとの関係を進んで強調したいと誰が思うだろうか? ユーロ圏全体を危険な状態にしかねないデフォルトの危機にひんする経済の機能不全や総選挙の試みなどは、集団的な神経衰弱のように見える。オリンピアを案内してくれたガイドはこう言っていた。

「私の仕事はギリシャの過去の栄光について語ることです。しかし未来は暗いので、涙が出てきそうです。100世代にわたって続く栄光が古代ギリシャ以外にあるかどうかわかりません」

だが、ギリシャが国を挙げての自己反省に取り組んでいる間にも、人類の偉大な発明の一つであるオリンピックは守られるだろう。現在のオリンピックの守護者たちは、信頼を損なうこともたくさんしてきたにもかかわらず、世界的な広がりと名声を高め続けてきた。そして、汚職への対応が不十分などの理由で、仮に国際オリンピック委員会のもとでの大会が衰退しても、大会の根底にある儀式としての意義が損なわれないことは確かだろう。

オリンピアが証明するもの、それは、人間が生きている限りスポーツが存在するということにほかならない。

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