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【ヒューマン・ドキュメント】車椅子バスケットボール選手・京谷和幸さん

〔取材・文〕平出浩,〔写真〕熊谷正

2012年09月13日 公開 2024年12月16日 更新

京谷和幸さんは元はプロのサッカー選手として活躍していましたが、事故をきっかけに、車椅子バスケットボールに転向しました。サッカーが生きがいだった京谷さんが、どのようにしてバスケットボールの世界と出会い、パラリンピックに出場するまでになったのか。その道のりをうかがいます。

※本稿は人生の応援誌『PHP』2012年9月号より抜粋・編集したものです。

 

「オレが1番」のサッカー選手時代

サッカーがすべてだった。オレは天才、オレが1番。オレの能力はオレのものだし、オレ自身のおかげ。人を褒めず、認めもしない。周りは、オレに感謝しろ、オレのために何かしろ。そこまで思い、時には言い放つ。それが京谷和幸だったと、彼は今、かつての自分を振り返る。そうとうな自信家である。周りからは、倣慢な態度と取られかねないほどの。

しかし、その京谷和幸は今、どこにもいない。いるのは穏やかな笑顔を絶やさない好人物。鋼のような強敬な精神力と共に、他者への感謝の気持ちを併せ持ち、すべきことに全力を出し尽くす、心優しい偉丈夫だ。

典型的な"オレ様タイプ"だったと自身を語る京谷和幸さんは、なぜ変わったのか。きっかけは、20年近く前の1993年11月28日にさかのぼる。早朝4時過ぎ、車を運転して帰宅途中に交通事故に遭う。開幕したばかりのJリーグ、ジェフユナイテッド市原(当時)のプロサッカー選手として将来を嘱望されていた矢先のことだ。前夜からチームメイトと話し込んでいて、帰りが遅くなった。

「早く帰らないと。そう思って、小雨降る中、スピードを出していると、突然、脇道から車が出てきて...。ハンドルを切りましたが、間に合わず、電信柱に激突していました」

事故が起きたときの様子を京谷さんはそう振り返る。

気がついたら、病院に。救急車で運ばれたのだが、その間の記憶はいっさいない。駆けつけた、のちに妻になる陽子さんに「ごめんな、ごめんな」と謝り続けていた。

実は事故があった日は、陽子さんとの大事な約束があった。まもなく挙げる結婚式で着る衣装を選ぶ日だったのだ。京谷さんの「ごめんな」には、衣装合わせに行けなくなったことに対する謝罪の意味があった。

手術を終え、目を覚ますと、首も腕も動いたし、外傷もほとんどなかった。しかし、腹部から背中にかけてはギプスが付けられ、身動き一つできない。

足はしびれ、力が全然入らない。でもこれは「事故の衝撃のせいに違いない。しびれさえ取れれば、また足に力が入るようになるだろう」。京谷さんの胸中に、車椅子の生活など微塵もなかった。事態が大きく動くのは事故から4、5日経った日、陽子さんが面会に訪れたときだった。

 

妻の覚悟と思いの深さを知る

「ねぇ、入籍しよう」唐突に陽子さんが切り出す。

「意味がわからなかったですね。なんで今なの? それも突然に。ぼくはサッカーに戻ることで頭がいっぱいだったし、快復したら、遅かれ早かれ入籍するんだから、そんなに急がなくてもいいじゃないかと」

しかし、陽子さんはこれまで見せたことがないほどの表情で迫る。「今じゃなきや、ダメなの!」。

ある種、迫力に気圧された京谷さんは「わかった」と、入籍を速やかに行なうことに同意する。そして、12月9日、大安の日にベッドに寝たまま、婚姻届にサインをした。交通事故から11日目のことだった。

入籍して、夫婦になったからといって、病院での暮らしは変わらない。それどころか、快復の兆しはいっこうにない。足のしびれは手術から2週間を過ぎても続いていた。

「さすがにイライラしてきましてね、腿を拳でガンガン、ガンガン、思いきり殴ったんです。でも、全然痛くなかった。紫色に変色しているのに。なんだろう、おかしいな、と思いますよね」

京谷さんのこの疑問は、それからまもなく、突如として氷解する。陽子さんが置き忘れた日記を思わず"盗み見"する。目に飛び込んできたのはあまりに衝撃的な内容だった。

「『脊髄神経がダメになった』と書いてありましたね。いくらバカなぼくでも、脊髄神経がダメになった=下半身不随、ということはわかりますよ。ああ、そういうことか、とこのとき、これまで疑問に思っていた点が線になってつながっていきました」

足のしびれがいつまで経っても取れないこと、足を思いきり叩いても何も感じないこと、そして、陽子さんが入籍を急いだこと。京谷さんの頭の中で、これらがすべて結びついた。日記にはほかにも「2週間経っても感覚が戻らないと、車椅子の生活になる」などの文字も綴られていた。

「普通なら『なんで黙ってたんだよ!』と詰め寄るところかもしれない。でもぼくは、日記は見ていないことにしようと思った。妻も両親も、ぼくをどれだけ支えてくれているか、もう十分にわかっていたから」

京谷さんの正式な病名は第5第6胸椎圧迫脱臼骨折で、腹筋と背筋がきかなくなり、排便と排尿のコントロールもできなくなっていた。いわば「垂れ流しの状態」(京谷さん)。

おむつを当てていて、それを交換するのは看護師だ。22歳の青年としては、若い看護師におむつを交換してもらうのはつらい。しかし、それは「仕方がない、受け入れよう」と思う。だが、結婚したばかりの最愛の妻にだけはしてもらいたくない。

「妻が面会に来るときには『漏れるな、漏れるな』と念じてましたね。でもあるとき、漏らしてしまった。やベェー、気づかないでくれ、と思っても、ニオイでばれるんですよ。そのとき、彼女は『なんかにおうね』って、さりげなく言って、布団をめくって、自然な感じでおむつを交換してくれたんです」

イヤだ、恥ずかしいという気持ちもなくはなかった。しかしそれよりも、逆の立場だったら、と思う。「オレなら、こんなことできない。いくら『愛してる』と口では言っても、じゃあ、できるかといったら、絶対できない」。そう思うと、真実を隠していた妻の思いが深く身に染みた。

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車椅子バスケットボールとの出会い

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