車椅子バスケットボールとの出会い
歩けなくなる、車椅子での生活になる、そして、サッカーができなくなる...。葛藤の日々が続く。
「サッカーは、本当にぼくにとってすべてだったんです。サッカーと共に生き、サッカーと共に死んでいくと、本気で思ってましたから。だから、0.1パーセントでも、0.001パーセントでも、再起できる可能性がある限り、あきらめるつもりはなかった」
しかし、サッカーができる日はついに来なかった。落胆の思いは察するに余りあるが、すばらしい出会いが訪れる。車椅子バスケットボールとの邂逅である。
最初はリハビリを目的に始めたことだった。それが、今も所属する千葉ホークスの練習を見てから、気持ちが揺さぶられる。
「ホークスの練習を最初に見たときは、こんなの、できねぇー、と思いましたよ。車椅子同士がぶつかって、バッチンバッチン、火花も散る。車椅子から落ちても、自分でまた乗って、走っていく。オレには無理だって」
一方で、生来の負けん気で「こんなの、しょせん障害者のスポーツじゃん」という気持ちも抱く。「悪い京谷」が出た。
これらの気持ちが大きく変わったのは、偶然、ホークスの国民体育大会(国体)の遠征についていく機会を得てからだ。このとき京谷さんは、事故後初めて、妻のサポートを受けることなく、1人で遠出をした。
「すべてが新鮮でしたね。ホークスのメンバーとの会話も楽しかったし、車椅子でエスカレーターを上り下りする姿を見て、驚かされもしました。何より惹かれたのは、試合に臨む姿。高度な戦術の話をしているのを聞いたときには『しょせん障害者のスポーツ』と思った自分が恥ずかしくなった。これはまさにスポーツだ、と思いを改めました」
帰宅して、国体での話を妻にすると、「昔の顔に戻ったね」と言われる。京谷さんの心は新天地を向き始めていた。
95年2月、出身地の北海道室蘭市で結婚披露パーティーを開いた。駆けつけてくれたのは、サッカーをしている京谷さんしか知らない人たち。車椅子に乗り、サッカー選手だったころより20キロも太った京谷さんを見た彼らから「昔の京谷はもういない」という無言のメッセージを感じ取る。
「だんだん腹が立ってきてね、最後に『アトランタの次のオリンピックめざして、バスケット、がんばります』と挨拶しちゃった。バスケット、まだ始めてすらいないのに」
アトランタの次の開催地はシドニー、車椅子でのバスケットボールが行なわれる舞台はオリンピックではなく、パラリンピック。それらの事実も言葉すらも知らなかったが、気持ちは高ぶっていた。96年に生まれた長女の存在も京谷さんの心を奮い立たせた。「この子が誇れる父親になりたい」と。
日の丸の誇りを胸に戦う
宣言した言葉どおり、京谷さんは2000年のシドニーパラリンピックで車椅子バスケットの日本代表に選ばれる。続く04年のアテネ、08年の北京でも代表達手として活躍する。サッカーでは果たせなかった日本代表としての晴れ舞台を3大会連続でしっかりと踏みしめたのだ。むろん、その陰には、不断の努力があった。しかし、京谷さんは言う。
「『努力』という言葉、あまり好きじやないんです。だって、好きなこと、自分で選んだことに全力で取り組むのは当然でしょ」
北京後、一度は引退を決意するも、再びチャレンジすることに。41歳になった今、4度目のパラリンピック、ロンドン大会を控えている〔注:取材時点〕。パラリンピックにかける思いを京谷さんは「日の丸」に込める。
「日本を代表する誇りと自覚と責任。日の丸はそれらを表わしています。そのことを後進の若い選手にも伝えたい」
父の生きる姿勢を見て育った長女は今、高校2年生。その後、生まれた長男は今、中学1年生。2人はそれぞれバトントワリングとサッカーに励み、それぞれの夢を育んでいる。
「妻とよく話すのですが、ぼくらは別に特別な人生を送っているわけじゃない。大変な境遇の人は大勢いるし、どの人にも、どの夫婦にも、どの家庭にも、それぞれの思いがあって、ドラマがある。それがぼくの場合は、たまたまJリーガーで、交通事故に遭って、車椅子バスケの選手になっているだけなんです」
京谷さんはさらに「いろいろな出会いによって、ぼくは成長してこられた。事故も出会いの1つです」とも話す。鋼のみならず、柳のようなしなやかな強さを兼ね備えた京谷和幸の挑戦と前進はやむことがない。