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生誕90年。「笑いは人間がつくるしかないもの」といった井上ひさしの創作論

井上ひさし(劇作家)

2024年11月16日 公開

2010年に、この世を去った劇作家の井上ひさし氏。国全体が貧しかった戦中・戦後の日本で青少年期を生き、昭和後半の高度成長期に、作家として大活躍。氏が創造した「ユーモアや笑い」は、多くの民衆の心をつかみました。1934年の戦後生まれですから、2024年は生誕90年にあたります。氏の、深くて、けれどもおもしろく、わかりやすい話を紹介しましょう。

※本稿は、井上ひさし著『ふかいことをおもしろく』(PHP文庫)の一部を抜粋・再編集したものです。

 

小説と劇作の違い、その面白さ

小説というのは一人の孤独な作業ですが、劇作は多くの人たちが関わって創り上げていきます。芝居は船を作る過程に似ています。僕は設計図や航路を描き、そして船長や乗組員を決めていく。そうした裏側に面白さを感じています。

設計者は、湾内を高速で走るスマートな船にするか、世界一周するぐらいの大きな船にするかなどを決めます。それに基づいて、スタッフが船を作ります。そこには船長がずっとついて「ここのところはこうしたらいい」と指導しながら進めます。

そこへ俳優、つまり一等航海士たちが乗りこみ、お客さんを迎えるわけです。大勢のお客さんを乗せるためにも、決して沈まないようにしなければいけません。

だからどんなに早く仕上げても、沈む船だと意味がない。お客さんが乗り始めて、ギリギリまでどこかでトントンと作業していても、大切なのは、お客さんが乗ったらすごく快適な状態になっているように導くことです。だからその設計者が一番しっかりしていなければなりません。

結局、最後はお客さんと俳優さんが、一つの屋根の下にいるというところへたどり着きます。そこでは、作者も演出家も照明家も全部消えてしまうのです。

やはり見ている人が目の前にいるという形式は、一番厳しく、しかし面白い。贅沢な芸術です。

 

「笑いは共同作業」であり、「人間の関係性の中で作っていくもの」

僕の芝居には必ずといっていいほどユーモアや笑いが入っています。それは、笑いは人間が作るしかないものだからです。

苦しみや悲しみ、恐怖や不安というのは、人間がそもそも生まれ持っているものです。人間は、生まれてから死へ向かって進んでいきます。それが生きるということです。途中に別れがあり、ささやかな喜びもありますが、結局は病気で死ぬか、長生きしてもやがては老衰で死んでいくことが決まっています。

この「生きていく」そのものの中に、苦しみや悲しみなどが全部詰まっているのですが、「笑い」は入っていないのです。なぜなら、笑いとは、人間が作るしかないものだからです。それは、一人ではできません。そして、人と関わってお互いに共有しないと意味がないものでもあります。 

人間の存在自体の中に、悲しみや苦しみはもうすでに備わっているので、面白おかしく生きようが、どういう生き方をしようが、恐ろしさや悲しさ、わびしさや寂しさというのは必ずやって来ます。でも、笑いは人の内側にないものなので、人が外と関わって作らないと生まれないものなのです。

親と子を引き裂くとか、恋人を忘れさせるとか、どちらかが死んでしまうとか、悲しませることは簡単です。しかし、笑いというのは放っておいて出来るものではありません。

人は、放っておかれると、悲しんだり、寂しがったり、苦しんだりします。そこで腹を抱えて笑うなんていうのはない。それは、外から与えられるものがあってはじめて笑いが生まれるからです。しかもそれは、送る側、受け取る側で共有しないと機能しないのです。

笑いは共同作業です。落語やお笑いが変わらず人気があるのも、結局、人が外側で笑いを作って、みんなで分け合っているからなのです。その間だけは、つらさとか悲しみというのは消えてしまいます。

苦しいときに誰かがダジャレを言うと、なんだか元気になれて、ピンチに陥った人たちが救われる場合もあります。

笑いは、人間の関係性の中で作っていくもので、僕はそこに重きを置きたいのです。人間の出来る最大の仕事は、人が行く悲しい運命を忘れさせるような、その瞬間だけでも抵抗出来るようないい笑いをみんなで作り合っていくことだと思います。

人間が言葉を持っている限り、その言葉で笑いを作っていくのが、一番人間らしい仕事だと僕は思うのです。

 

「明日命が終わるにしても、今日やることはある」という考え方

僕の芝居は、いろいろなテーマが見え隠れしていると言われます。社会主義とか資本主義とか宗教とか、芝居のテーマにはいろいろありますが、すべて誰かが頭の中で考えたことであって、本当にリアルなのは、現実しかありません。

誕生し、成長して、年を取って、病気になるか老いて死んでいくこと......リアルなものはそれしかないのです。小説や芝居には、そういうことが全部書いてあります。だから、その年なりに、その時々によって読むべき小説、見るべき芝居というのがあるのだと思います。

本を読むことと、ビジュアルで見てしまうことを比べると、想像力がまったく違います。そして本は漠然とは読めません、集中が必要です。僕はそうして今も本を読み続けています。

チェーホフを主題にした芝居も書きましたが、彼は44歳で亡くなるまで、20年間ずっと結核と友だちになりながら、膨大な仕事をしていました。そういう生き方をチェーホフの作品から、チェーホフの実人生と重ね合わせながら見ていくわけです。

そこからは、「人はいつ死ぬかわからない、しかし、明日命が終わるにしても、今日やることはある」ということがよくわかります。そういう意味では、文学作品とは、生きる上での相当な導きのお師匠さんになるのではないでしょうか。

たとえば、何人かで同じテレビドラマを見たとしても、深く受け取る人もいれば、ストーリーだけ追っていく人、俳優を見ている人もいます。若者をはじめとする本離れが問題視されていますが、それも同じで、それぞれの覚悟と受け取り方によるでしょう。

時代が違えばそれはそれでいいのかなと。僕はそう思っています。

 

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