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江戸時代から「推し活グッズ」はあった? 歌舞伎が現代に残した“3つの影響”

池田訓之(株式会社和想 代表取締役社長)

2024年12月17日 公開 2024年12月18日 更新

江戸時代から現代まで続く日本の伝統芸能「歌舞伎」。社会に与えた影響は大きく、いま何気なく使っている物・事・言葉の中にも歌舞伎が由来になっているものがたくさんあります。

山陰地方(鳥取・島根)で呉服店「和想館」を経営。和と着物の専門家である池田訓之氏が解説します。

 

11,12月は歌舞伎界の一年の始まり

師走の京都を賑やかにしてくれるのが、南座で行われる歌舞伎の顔見世興行です。江戸時代から続く歌舞伎の世界では役者が劇場と一年契約を結び、始まりに一座を紹介するのが顔見世でした。現在行われている顔見世の中で最も古くから続いているのが南座のそれです。私もお客様と着物を着て毎年、南座の顔見世に向かいます。400年の歴史を刻む歌舞伎は、現代の我々に、意外な影響を与えているのです。

 

歌舞伎の歴史

時は1603年、徳川幕府が開かれ江戸時代が始まりました。自由な気運を世間が渇望していた折、島根県の出雲大社で巫女をしていた、阿国(おくに)を中心とした集団が、京都に出てきて四条河原で踊りだしました。

そのいでたちは、胸にロザリオをつけ、南国から伝わった派手な更紗(さらさ)文様の着物に、秀吉が朝鮮出兵を命じた当時に女郎が締めていた帯である名護屋帯をしめ、太い丸ぐけの腰ひもに房をつけて体に巻き付け、刀をさし、鉢巻を巻く。そして念仏踊りを河原で歌い舞いだしたのでした。自由な気運をもとめていた庶民の心は、たちまち阿国の集団に魅了されます。

風変わりなさまをすることを「傾く(かぶく)」といいました。ここから、阿国たちの踊りは「かぶき踊り」と呼ばれ、やがて傾いて歌い舞う様を歌舞妓(かぶき)と称するようになります。歌舞伎は全国に広がるのですが、女性が舞台で踊ることが風紀を乱すとして禁じられたので(1623年)、「妓」から「伎」を用いるようになり今にいたっているのです。

 

現代にも残っている歌舞伎の影響

・推し活 

最近の流行りことばに「推し」や「推し活」があります。自分のお気に入りの人やもの(特にアイドルや芸能人など)を「推し」、それを応援したり愛でる活動を「推し活」と呼ぶのですが、実はこの「推し活」は元を辿ると江戸時代の歌舞伎に由来すると言われています。

顔に多色で筋を書き入れる隈取(くまどり)、一点をにらみ静止する見得、飛び跳ねながら進む六方、着物には大柄の文様や家紋をあしらい、見た目にわかりやすい歌舞伎は、江戸の庶民の心をワシづかみに捉えたのでした。

その頃は、今のようにSNSもカメラもありませんから、熱狂したファンは、役者の演者姿をまた普段の姿を描いた浮世絵をプロマイド代わりに集めました。また、芝居小屋には、中央には庶民向けの平な土間席があり、周りに桟敷(さじき)席がもうけられていました。

館内を見下ろす桟敷の最上席は、役者が挨拶に来る、幕の後にはさらに役者と食事ができるという特典付きでした。土間席の庶民から見上げられ、芝居の合間に役者の方から近寄ってきて話しかけられるという、最上席は、ファンにとってはまさに楽園でした。

楽園の坐を獲得した選ばれしファンは、芝居小屋中の視線を感じつつ、精一杯のお洒落な着物を着て芝居を観覧し、役者と交わり至福の時を過ごしました。そしてファンの多くが、一生に一度は最上席で芝居を見たいとあこがれ、楽園を目指したものでした。

これは、ファンが自分の推しの写真やグッズなどを買い持ち歩く、また、特別待遇を受けたいがためにCDアルバムや写真集を買いあさり、コンサートで前列の特別席に座り続ける、といった現代の推し活行動とどこか重なりませんか?

 

・歌舞伎から生まれた文様


左から2番目がお染形、右から2番目が市松文様

推し活の一つとして、推しのシンボルやロゴが入った服を着ることがありますが、実はこれも江戸時代から。客はひいきの役者と同じ文様の着物をはおり、さらに文様に役者の名前をつけて呼ぶようにもなりました。

<市松文様>
色違いの四角形が交互に並ぶ格子柄のことです。もともと格子柄は、寺社の境内に敷き詰めている石畳を現わし石畳文様と呼ばれていました。それを佐野川市松という歌舞伎役者が、袴の柄に用いて大流行、市松文様と呼ばれるようになりました。市松人形と呼ばれる人形の由来も、もとは佐野川市松のフィギアだったことに起因します。

<お染形>
正六角形を基本とし中に6個の三角形を組み合わせ広がっていく麻の葉文様と呼ばれている柄です。こちらも嵐璃寛(あらし りかん)がお染という女形の衣装に用いてから、「お染形(おそめがた)」と呼ばれるようになりました。

<三津五郎格子>
江戸時代の芝居小屋は土間を四角に区切って座り込む升席でした。そこで、坂東三津五郎は、縦横に三本と五本の直線を交差させて升席を現わし、いつも満員になるようにと祈りを込めて着ていました。その柄は「三」津「五」郎格子と呼ばれました。 

 

・日常語

まだ灯が十分にとれない江戸時代、舞台は日の出から日の入りまで行われ、観客は幕の間に弁当を食べていたので「幕の内弁当」、日没が近くなると「幕を引く」、どちらも歌舞伎に由来する言葉です。他にも色々あります。

<縁の下の力持ち>
歌舞伎の舞台装置で、花道やセリなど舞台装置を支える部分のことを「縁の下」と呼びます。縁の下は観客からは見えないが、舞台を支える重要な役割を担っていることから、日常的にも陰で支える人や物を表す意味で使うようになりました。

<どんでん返し>
こちらも舞台装置からきたことば。舞台の大道具が一瞬でガラッと変わることを「強盗返し(がんどうがえし)」と言いますが、その時に「どんでんどんどん」と太鼓が鳴ることから、別名「どんでん返し」と言うようになり、現代では結末が大きくひっくりかえるという日常語になっていますね。

<修羅場>
歌舞伎で、戦いの激しいシーンを修羅場を呼んでいました、これが転じて、現代では、「恋愛関係のトラブル」や「あわただしい場面」をさすようになりました。

<とちり>
失敗やミスをさすこの言葉は、もとは歌舞伎界のことばでした。歌舞伎界では、失敗をすると、迷惑をかけた人に「とちりそば」と称したそばをおごって許してもらうそうですよ。

<なあなあ>
歌舞伎の内緒話の場面で、一方が「なあ」と話しかけると、相手が「なあ」と返す演技があります。ここから、適当に折り合いをつけて物事を済ますことを指すようになりました。

<だんまり>
歌舞伎の演技の中で、暗闇の中で、何も話さすに演技が進行していくことを指す言葉だったのが、「黙って何もいわないこと」という日常語になりました。

 

歌舞伎は掛け声で楽しむ!

歌舞伎は大衆演劇として広まったものですから、見物の折、そんなに細かな決まりごとはありません。私は、鳥取から毎年お客様と着物姿で南座の顔見世を見に行きますが、特に緊張はしません。歌舞伎は、演じる役者が着物姿で、やぐらも和風ですから、着物姿がとっても似合います。

着物を着ていく場所がないと言われる方には、ぜひ一度歌舞伎に出かけて頂きたいものです。南座は、京都の花街(祇園)にあるので、着物のプロの方の普段の着物姿も客席には見られてとても華やかです。

あえて、一つ注意して頂きたいことといえば「かけ声」でしょうか。歌舞伎等の日本の演芸の場での声援は、本来は声を掛けてあげるのが習わしでした。日本では、拍手は神を呼びだす習慣と考えられていたので、江戸時代には客は声を掛けて盛り上げていたのでした。拍手は明治になってヨーロッパから入ってきた文化なのです。

当時、役者は身分が低く、苗字はありませんでした。やがて、人気が高まると共に地位も上がり、幕府によって商人と同じように表通りに住むことが認められ、商人としての屋号を苗字代わりに名乗ることも許されました。それで客は役者の屋号を呼んで盛り上げるようになったのでした(=大向・おおむこう)。

例えば、市川団十郎は、成田不動に願をかけたら子宝に恵まれたことから「成田屋」、坂田藤十郎は出身地にちなみ「山城屋」、松本幸四郎は、若い頃に丁稚奉公をしていた神田の商屋から「高麗屋」を名乗りました。

さあ、みなさん、それでは、着物を着て歌舞伎に出かけましょうぞ!「よっ、成田屋!!」

著者紹介

池田訓之(いけだ・のりゆき)

株式会社和想 代表取締役社長

1962年京都に生まれる。1985年同志社大学法学部卒業。インド独立の父である弁護士マハトマ・ガンジーに憧れ、大学卒業後、弁護士を目指して10年間司法試験にチャレンジするも夢かなわず。33歳のとき、家業の呉服店を継いだ友人から声をかけられたのをきっかけに、まったく縁のなかった着物の道へ。着物と向き合うなかで、着物業界のガンジーになることを決意する。10年間勤務したのち、2005年鳥取市にて独立、株式会社和想(屋号 和想館https://store.wasoukan.com/ )を設立。現在は鳥取・島根にて5店舗の和想館&Cafe186を展開。コロナ禍前には、着物業界初の海外店舗・和想館ロンドン店も営業。
メディア出演や講演会を通じて、日本の「和の心」の伝道をライフワークとして続けている。著書に「君よ知るや着物の国」(幻冬舎)。

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