誰しも、「嫌われたくない」という感情を一度は持ち合わせたことがあるのではないでしょうか。『暮らしの手帖』元編集長でエッセイストの松浦弥太郎さんも、ついそれを考えてしまう性格だったそうです。松浦さんの孤独感を和らげた方法を、ご著書『明日がいい日になりますように。』より紹介します。
※本稿は、松浦弥太郎著『明日がいい日になりますように。』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
孤独であることを打ち明けるから共感を得られる
大らかで、天真爛漫な人が、うらやましいと思ったことがあります。邪心がなくて、とびきり素直。裏表がありませんから、さぞかし、みんなに好かれるでしょう。
そういう人の持つ「どう見られようと、自分は自分」という姿勢は、さぞかし、人生をすっきりさせることでしょう。
ところが、僕ときたら、まるで逆。けっこう自意識過剰で、友人関係でも仕事のつきあいでも、ついつい考えてしまいます。
「みんな、僕のことをどう思っているんだろう?」
「実は嫌われているんじゃないか」
「いずれ仲間はずれにされてしまうかもしれない」
この気持ちはどこに行っても、影のごとく、ぴたりとついてきたのです。自分を良く見せたい、人に好かれたいと思って、ついてしまう小さな噓。人の幸せを「良かったね」と言いながら、どこかでくすぶっている焼きもち。
僕が抱えた秘密は、恥ずかしさにコーティングされた不安と寂しさになって育っていき、「嫌われるかもしれない」という恐れがいつもありました。
僕が試して、楽になった方法は、自分の心のなかを人に話すこと。嫌われるかもしれない秘密の部分を、思い切って人に打ち明けたのです。
相手は大切な親友で、彼に嫌われたくない、彼ときちんと向き合いたいという思いで、話をしました。「この人には、正直でいたい」と痛切に思ったのです。
親しい相手にすら、本当の自分を見せていない罪悪感めいたものがあること。その本当の自分といえば、ちょっとした噓をついたり、嫉しつ妬とをしたり、恥ずかしくてみっともない人間であること。彼は、じっと聞いてくれました。今思うと、キリスト教の人が教会でする告解や、カウンセリングのようなものだったかもしれません。
僕はそれで、救われました。心をひらくことができたのです。
自分の弱いところ、だめなところ、直さなければいけないと思っているところ。それは誰からも隠すべき「恥」として、たいていの人が持っているもののようです。現に、僕が打ち明けた親友は、わかってくれました。
「みんなそうじゃない?」
「僕だってそうだよ」
「ああ、そうだったんだ」
特別なアドバイスなどなくても、聞いてもらえるだけでずいぶん違いました。その後も、別の人にこうした話をしたことがありますが、「ええっ、松浦くんってそんな人だったの。信じられない」という反応はありませんでした。
僕の持っている「嫌われるかもしれないという不安と寂しさ」とは少し色合いが違うけれど、相手もまた「嫌われるかもしれないという不安と寂しさ」を持っていて、僕が自分を見せたことでわかりあえた部分もあります。
知り合い全員に、打ち明ける必要などありません。家族でも親友でもパートナーでも、自分が本当に大切にしている人に、恥ずかしい秘密を聞いてもらいましょう。
カウンセラーや心療内科の先生に話を聞いてもらうという方法もいいと思います。自分と関係ない人のほうが、かえって話しやすいということもあるのです。大切なのは、「嫌われるかもしれないという不安と寂しさ」を秘密にせず、言葉に出してしまうことだと感じます。
自分を見せる。自分から見せる。これほど大切なことはありません。自分をひらく努力をしましょう。
「心をひらく」とは、ただ大らかで、みんなにニコニコし、人づきあいがいいことを指すわけではありません。普段なかなか言えない自分の話を、誰かに打ち明けること。これこそ、「心をひらく」行為だと僕は思っています。
「嫌われるかもしれない」と自分を閉じていると、相手はどうかかわっていいのか、わからなくて当然です。窓をぴったり閉ざし、昼でもカーテンを締め切り、気配すらしない家の住人と、つきあいたいと思うご近所さんなどいません。
「嫌われるかもしれないという不安と寂しさ」を抱える人は、そんな家と同じです。
笑顔も見せない。自分から挨拶すらしない。本当の自分を見せることもない。これでは、自分からまわりを遠ざけてしまいます。嫌われるという事態を招く、それ以前に「関係ない人」と切り離されてしまうかもしれません。
じっとしたままで、「誰か話しかけて。誰か私のことをわかって。できれば、本当の私を見つけ出して」と願うのは、ずいぶん難しい注文です。
誰かに自分の秘密を打ち明けるほかに、普段からできる「自分をひらくレッスン」があります。それは、今いる場所を、見知らぬ旅先の外国だと思うこと。知らない街、知らない言葉を使う場所で、友だちをつくろうとするときをイメージしましょう。
そのイメージで、人とかかわるようにしましょう。誰一人知り合いのいない外国に行ったら、まず自分から挨拶をし、笑顔を向けるのが、人とかかわるいちばんの方法です。相手から声をかけてくれるのをじっと待っていたら、ずっと独りのままなのですから、ほかに方法はないのです。
普段からこのレッスンを試し、ときどき親しい人に、自分の話を思い切ってしてみる。これでずいぶん、楽になるのではないでしょうか。
「たくさんの人に喜ばれること」をする
僕の友人である料理人が、頑張っているのに報われない原因が一つあります。それは、たくさんの人を喜ばせていないこと。食通といわれる人が大喜びするような料理を出す店ですが、そうしたお客様は大勢というわけにはいきません。
「どれだけの人が喜んでくれていると思う?」
僕が訊ねると、彼はしばし黙り込み、「200人ぐらいかな」と答えました。たくさんの人が喜んでくれているかどうかと収入は比例します。ハリウッドスターが桁違いのお金を稼ぐのは、映画に出ることで世界中の何百万人もの人を喜ばせているからです。
「面白い映画が観たい」という人のほしがるものを、大勢に対して与えているから、それが循環してお金として返ってくるということです。
「たくさんの人に喜ばれることをしているか?」
この点を考えない限り、ポジションや収入は上がっていかないと思います。オムライスに象徴される「たくさんの人が安心するもの」は、「たくさんの人に喜ばれるもの」でもあるのです。もし、彼が最高のオムライスを出すようになれば、400人、800人と喜ぶ人を増やすことは、そう難しくはないでしょう。
仕事を通じて自分ができることと、世の中の人が求めているものを嚙み合わせていく。これも「与える人生」の練習になります。だからくれぐれも空回りしないように、よりたくさんの人と嚙み合うように工夫しなければなりません。
最初は100人の人が喜んで役に立ててくれる。その次に300人の人が喜んで役立ててくれる。やがて500人、1000人の人が喜んで役立ててくれるというように増えていくと、自分の社会的な評価も信用も増えていきます。結果として確固たるポジションができ、収入が増えれば、より大きなスケールで人に与えられます。
年齢を重ねるごとに、より大きなスケールで与えることも考えていきたいものです。少なくとも僕は、日々、真剣に考え続けています。もちろん、「自分のスタイルが大切だ」「身近な人だけに与えて喜んでもらえればいいし、わかる人だけわかってくれればいい」という生き方もあり、それは人それぞれでしょう。僕にもその気持ちはよくわかります。
なぜなら三十代までの自分がそうだったから。喜んでくれる人はいましたが、小さな世界でのことでした。三十代までの僕は精一杯、格好つけており、自分のスタイルを極めることで共通の価値観がある人になにかを与え、喜んでもらおうとしていました。
ところがあるとき作家の友人が、こんなことを言いました。
「どんな本でも売れなきゃだめだ。いくら立派でいい本をつくっても売れなきゃだめなんだ」
彼は非常にこだわりがあり、いい本をつくることについては命をかけるぐらいの人物です。しかし、残念ながら本はあまり売れていません。
「売れていないのなら、いいものじゃないのか。なるほど、もし、いいものだったら世の中の人がみんなほしがるな。結局、いいものだと思っているのは自分だけか」
僕は彼との会話をきっかけに、はたと気づきました。八方美人になるわけではないけれど、もう自分のこだわりは捨てるべきではないか。これからは、たくさんの人が喜ぶものを与えることを優先したほうがいい、と。
この考え方をするようになってから、大きな世界が開けた気がしています。
たとえば、新しい企画を立てるとき、僕はデパートの食料品売り場やショッピングセンターなど、とにかくいろいろな人が集まるところに行きます。ごく普通の人たちに喜んでもらえることはなにか、四六時中考えています。電車に乗れば「この車両にいる人たちを喜ばせるには、なにが必要か?」と思いを巡らします。
要は選択の問題です。「自分にはお金もポジションも社会的信用も必要ない」と思うのなら、わが道をゆくと決めていい。しかし、そうしたものがほしいのであれば、大勢の人たちがほしがることを与えなければなりません。
「自分の道を行きたいけれど、お金も社会的信用もほしい」というのは無理な話です。
いずれにしろ、懸命に人を喜ばせようとし、実際に喜んでもらうことが大切です。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、人事を尽くすことは、そうたやすくはないのです。
人のせい、社会のせいにしない
これからの人生を楽しみたいなら、どんなかたちでもチャレンジを続けていきましょう。失敗してもいいから、恐れずに挑戦しましょう。
僕は、どんなことがあろうと弱者にはなるまいと決めています。弱者の立場におさまると、なに一つできなくなります。
自分の弱さを振りかざし、すべてを人のせい、社会のせいにするのが弱者です。年齢を重ねると、しっかりしていたはずの人でさえずるずると弱者の側に流れてしまうので、より注意したいと思っています。
政治や社会のシステムを恨んで、「もう、どうやったって認められない」「人生は良くならない」とあきらめるのではなく、何歳になってもチャレンジを続ける。成功する確率が低くなっても、ひるまずにテーブルにつく。
弱者は試合すら放棄している悲しい存在ですが、敗者はとてもすてきだと僕は思っています。負けたとは、チャレンジをし、勝負をした証あかしなのですから。
今の段階では負けているけど、もしかしたら次の試合では勝つかもしれない。それこそ敗者です。勝者になる可能性があるのが、敗者なのです。永遠に試合に出ない弱者には未来がありませんが、敗者には無限の可能性があります。
何回負けても、毎回スタートラインに立つ勇気を持ち続けましょう。全勝で人生を終える人など、一人もいません。みんな負けを経験し、勝ちを経験し、七転び八起きの言葉のごとく、勝者と敗者の役を交互に演じて生きています。
勝者と敗者には実はそんなに違いはなくて、スタートラインに立っている時点で同じではないか。僕はそんなふうにも考えています。
年齢を重ねて「先が見えた」と思ったら、たちまち弱者になります。そんなわけしり顔の大人になるのは、断固としてやめようではありませんか。
先は見えなくていい。不安でもいい。ずっとチャレンジし続ける人生を過ごしましょう。