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生き方

日本人はなぜ牛乳でお腹を壊すのか? ヨーロッパ人との遺伝的違い

長谷川眞理子(進化生物学者)

2025年09月05日 公開

日本人は牛乳を飲んでお腹を壊すことがあるが、ヨーロッパ人はあまりない。その背景には遺伝的な理由があった。生物の進化の謎について、進化生物学の第一人者である長谷川眞理子氏が解説する。

※本稿は、長谷川眞理子著『美しく残酷なヒトの本性』(PHP新書)より内容を一部抜粋・編集したものです。

 

文化進化が生物進化を促すとき

私が行なう講演の多くでは、ヒトの進化史を扱う。そして、人類進化の600万年、ホモ属の進化の200万年、そして、私たちホモ・サピエンスの進化の30万年の話をする。

この時間スケールで見ると、昨今の都市化や貨幣経済の浸透などは、ここ数百年内に起きた話であり、コミュニケーション技術の発展などはさらに短く、ほんの数十年の話にすぎない。こんな急速な変化は、進化を考えれば一瞬の出来事なのである。

つい先日もそのような内容の講演をしたのだが、「ごくごく最近の1万年」という表現は、大方の人びとには受け入れ難かったようだ。1万年がなぜ「最近」と言えるのか、というわけだ。

しかし、私たちヒトという生物が進化してきた時間の長さはこんなものであり、ごく最近に起こった変化の一つひとつに、私たちの身体や遺伝子がリアルタイムでついていって進化しているわけではないのだ。

文化がどのように変容するのかについては、「文化進化」という研究分野で詳しく研究されている。文化の要素の基礎となる概念が多くの人びとに受け入れられれば、その文化要素は集団中に広まる。誰かが変化を加えれば、それが生物進化の突然変異に当たる。

そして、変異した要素が多くの人びとに受け入れられれば、文化は変容する。農耕と牧畜が始まり、文明が興り、都市化が進み、産業革命が起きた。これらはすべて文化進化である。

しかし、それは文化の諸要素の変遷であって、必ずしも、文化を生み出している私たちヒトの身体や遺伝子の進化を伴っているわけではない。「文化進化」は「生物進化」とは別に起こるのだ。文明が進んだ人びとの遺伝子は、文明以前の人びとの遺伝子と同じであって、とくに進化しているわけではない。

ところが、たまに、文化進化が生物進化を促すことがある。それは、「遺伝子─文化の共進化」と呼ばれる特殊な状況である。

 

生乳を消化できる遺伝子、できない遺伝子

遺伝子─文化の共進化の有名な例は、牧畜文化と乳糖耐性の進化の関係だろう。

およそ1万年前、牧畜という生活様式が生まれた。牧畜は、ウシ、ヒツジ、ヤギなどの有蹄類を家畜化し、その肉や乳を食料とする文化である。この牧畜生活を採用したヒト集団のなかに、家畜の生乳をそのまま食料とする文化が生まれた。

牧畜文化のなかには、生乳を食料とはせずに、ヨーグルトなど発酵させた形でのみ利用する文化もある。

さて、哺乳類とは、母親が赤ん坊を母乳で育てる動物である。だから、哺乳類の赤ん坊は、母乳に含まれる乳糖を消化できる。それができるのは、哺乳類の赤ん坊は皆、乳糖分解酵素をもっているからだ。

しかし、離乳して他の食物を食べるようになると、もう乳糖を摂取することはなくなるので、乳糖分解酵素は不活性となる。だから、哺乳類の大人は皆、乳糖を分解できないのが普通なのだ。

乳糖の分解に関わっているのは、じつはたった1つの遺伝子である。ヒトの場合、この遺伝子に変異が起こって、成人になっても乳糖分解酵素を維持するという遺伝子が生じた。

しかし、成人の食事のなかに生乳が多く含まれるのでない限り、この変異遺伝子をもっていてもとくに有利になることはない。農業と牧畜の発明以前の生活である狩猟採集生活をしている人びとの間で、この変異遺伝子をもつ人の割合は12%ほどだ。牧畜をしない農耕民の間でも、その割合は15%ほどである。

しかし、1万年前に牧畜が始まり、そのなかで、生乳を主な食事とする文化が生まれた。そんな生活では、成人になっても乳糖分解酵素を維持するという変異遺伝子は圧倒的に有利になる。

その結果、生乳に依存している牧畜民の間では、アフリカでも北ヨーロッパでも、いまでは集団の90%以上の人びとがこの遺伝子をもっているのである。一方、生乳に依存しているのではない、北アフリカおよび地中海地方の牧畜民の間では、この遺伝子の保有者は40%弱である。

日本人は基本的に農耕民なので、成人してからも生乳を消化できる遺伝子をもつ人の割合は少ない。多くの日本人成人は、生の牛乳をぐいぐい飲むとお腹を壊すだろう。しかし、ヨーロッパ人は、基本的にほとんどの人が、成人してからも生乳を消化できるのである。

そこで思い出したのが、フランスの作家ギ・ド・モーパッサンの「牧歌」という短編小説である。田舎の電車の中で、成人の男と女が仕切られた客室に座っている。女は乳母なのだが、目下のところ乳を飲んでくれる赤ん坊がいないので、乳房が張って苦しい。一方、男は貧乏で何日も食事をしておらず、とことんお腹がすいている。そこで、この男が乳母の乳首に吸いついて母乳を飲ませてもらうことになった。男は空腹でなくなり、乳母は楽になれて双方ハッピーエンドという話だ。

ちょっと滑稽で、しかしほのぼのとした話だが、これが可能なのは、大人も生乳を消化できるヨーロッパ人だからなのだ。日本では、まずこうはいかないだろう。

それはともかく、乳糖耐性遺伝子の進化は、遺伝子─文化の共進化の顕著な例である。では、他にもそんな例があるかと言うと、あまりない。やはり多くの文化進化は生物進化とは独立なのである。

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