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社会

尾木ママの「脱いじめ」論~いま、大人に伝えたいこと

尾木直樹(教育評論家)

2016年06月03日 公開 2024年12月16日 更新

PHP文庫『尾木ママの「脱いじめ」論』より

いじめの記憶は何十年経っても残り続けます

あるときのことです。何十年ぶりかで小学校のとき同級だった女性に会いました。教育評論家として全国を講演で回っていたときに、わざわざ講演先まで会いに来てくれたのです。

久しぶりに会った彼女の自己紹介は、このような第一声でした。

「尾木くん、私を覚えていますか? 小学生のときに学校でいじめられていた○○です」

もちろん、彼女のことは覚えていました。でも小学生時代、自分の学校にいじめがあったことなんて、それまで私は忘れてしまっていたのです。

「ああ、そういえばそうだった……」と、走馬灯のように当時のことがよみがえりました。私には「小学校のときはとても平和で楽しかったなあ」という牧歌的な記憶しかなかったのですが、記憶をたぐりよせてみると、たしかにいじめはあったのです。

私の小学生時代ですから、もう50年以上も前のことです。いじめの質は現在のいじめほどには残忍で陰湿で冷酷ではなかったと思います。

でも、いじめられた側の彼女はずっと「みんなから仲間はずれにされた」、「ひどい言葉を投げつけられた」、「助けてもらえなかった」というつらい記憶を持ち続け、苦しんできたのですね。その想像を絶するような傷の深さを思うと、しばらく彼女にかける言葉が見つかりませんでした。

今でも「どうして助けてあげられなかったんだろう」と思うと自分が情けなくなります。重苦しい思いに襲われて胸が苦しくなります。

小学校時代の同窓生たちが集まったときのことです。久しぶりの同窓会に、場は大盛り上がり。あちこちで思い出話に花が咲いているところに、ひとりの同級生が私の傍にやって来て言いました。

「僕ね、尾木くんに謝らないといけないことがあるんだ。小学生のときに、君をいじめたことがあって……。それをずっと後悔していたんだよ」

学校の帰り道、坂道で私に「オンブしろ!」と命令して、自分をオンブさせて上らせたというのです。

「えーっ、そんなことあったっけ!?」

私にはまったく記憶がなく、いじめと呼ぶほどひどい行為だったとは思えませんでしたが、彼は50年以上もそのことを後悔し続けていたのです。

いじめは、いじめられた側はもちろんのこと、いじめた側にも心に傷を残します。そして、いじめがあることを知っていながら傍観してしまった者たちの心にも傷を与えます。

その傷は深くて、ちょっと触れるだけでも大きな痛みが走り、触れるたびに赤い血がにじんできます。いじめによって負った傷は時間が経ってもなかなか癒えていきません。癒えたとしても痛ましい傷跡が残ります。

そうした傷を成長過程の途上にいる子ども時代に負ってしまう。そこで人生を変えられてしまう――。なんと残酷なことでしょうか。

その残酷さゆえ、いじめは罪深いのです。だから絶対にいじめを許してはいけないのです。いじめに目をつぶってはいけないのです。

いじめによってかけがえのない子ども時代を奪われていく子どもたちを、ひとりでも減らしていくことに大人はもっと心を砕いていかなくてはいけません。

「いじめのようなものはなかった」

「いじめがあったことには気づかなかった」

こんなふうに言い逃れる教師や教育関係者もまた、ひとりでも減らしていかなくてはいけないのです。

 

「いじり」は「いじめ」を増長させる温床です

いじめの自覚がない「いじめ」に、近年よく耳にする「いじり」があります。よくいじられる子は「いじられキャラ」とも呼ばれます。

いじりはじつに問題含みです。というのも、いじっているほうはあくまで「からかい」の延長といった感覚しかないからです。たしかになかには、深く傷つくまでには至らない程度のいじりもあるでしょう。しかし忘れてならないのは、いじりとは相手の個性や人間性の冒涜であるという点です。

「いじり」という軽いニュアンスでオブラートに包まれていることで、例えばよってたかってひとりの子の制服を脱がすといった「いじめ」でさえ、「いじっただけ」で片づけられてしまいます。そんなことが許されていいわけはありません。

立派ないじめであるにもかかわらず、「いじりだからいい」となってしまう背景には、やはりお笑い番組の影響も大きいように感じます。テレビ番組の中でお笑い芸人がいじられ、それによって出演者も茶の間で観ているほうも大笑いする。その影響は小さくないでしょう。

とくに現在のお笑いでは「いじり」は当たり前のものとなっています。「わあ、そこまでやる!?」と言いたくなるいじりも多々あります。ただ、それは芸人である彼らにとっては「笑いをとる仕事」にしか過ぎません。行き過ぎと感じるようなレベルであっても、仕事だからいじられているわけです。

大人であれば、そうした割り切った醒めた目で「いじり」を楽しむこともできるでしょう。しかし心の柔らかな子どもたちは違います。丸ごと真似するまでには至らなくとも、いじりの場面を繰り返し観ているうちに見慣れて、感覚が麻痺し、「ああ、こういうことをやってもいいんだ」と思うようになっていきやすいのです。

これは脱感作効果と呼ばれています。リラックスした状態で画面の中の暴力行為を観ていると、暴力に対する感覚が麻痺し抵抗感が弱まってしまうというものです。

お笑い番組はリラックスして楽しむものです。その状態で「いじり」という名の暴力行為を繰り返し楽しむことになれば、脱感作効果によって正義感やモラルも萎えていきます。「いじりだから」と笑いながら、無自覚でいじめる「いじめ」を増長させていくことにもつながっていくのです。

もちろん、お笑いは悪いことではありません。私もお笑いやお笑い番姐は大好きです。

けれども人の尊厳を傷つけたり、暴力を振るうようなお笑い文化が子どもたちに与える影響の大きさを考えると、「いじり」をおもしろいものとして手放しで楽しむ気にはなれません。子どもたちのいじめを減らすためにも、「そういうのはやっぱりおかしいよね」との認識が、つくる側にも観る側にも定着してくれることを願います。これは大人の責任でしょう。

 

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いじめの対極「人権(市民教育)・愛・ロマン」に基づく学校づくりを!

著者紹介

尾木直樹(おぎなおき)

教育評論家、臨床教育研究所「虹」所長

1947年生まれ。早稲田大学卒業後、海城高校、東京都公立中学教師として、22年間ユニークで創造的な教育実践を展開。現在、教育評論家、臨床教育研究所「虹」所長、法政大学キャリアデザイン学部教授、早稲田大学大学院教育学研究科客員教授、日本教師教育学会常任理事。全国への講演活動や執筆、調査・研究活動のほかメディア出演も多数。
主な著書に『子ども格差―壊れる子どもと教育現場』(角川oneテーマ21)『思春期の危機をどう見るか』(岩波新書)『尾木ママの「叱らない」子育て論』(主婦と生活社)『尾木ママの黙ってられない!』(KKベストセラーズ)『尾木ママの「凹まない」生き方論』(主婦と生活社)ほか。

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