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戦争体験の証言が聞けない時代、どう調査する? 横浜の街中に探る「軍隊の痕跡」

PHPオンライン編集部

2026年02月06日 公開


本町通りを行進するアメリカ軍の車両(1953(昭和28)年 栗林阿裕子氏寄贈、奥村泰宏撮影、横浜都市発展記念館所蔵)

戦後80年を迎え、日本は長いあいだ戦争のない時代を過ごしてきました。戦争体験者は年々少なくなり、直接話を聞くことは難しい状況になりつつあります。

こうしたなかで横浜都市発展記念館が開催する特別展「戦争の記憶 横浜と軍隊の120年」は、戦争体験の証言だけに依存しない形で、過去と向き合う道筋を示そうとする展示です。本展が対象とするのは、1853年の黒船来航から1975年のベトナム戦争終結までのおよそ120年間です。横浜という都市と軍隊がどのような関係を結んできたのかを、地域に残る資料や景観、遺跡、モニュメントから読み解こうとしています。

本稿では、展示担当の主任調査研究員・吉田律人さんの解説を紹介します。

 

横浜はなぜ軍隊の街として語られてこなかったのか

横浜は開港都市として語られることが多く、軍隊や戦争との関係は、これまであまり前面に出てきませんでした。その理由について吉田さんは、「横浜市内には、東京や横須賀のような大規模な常駐部隊がなかったことが大きい」と指摘します。

しかし、展示を通して見えてくるのは、横浜が決して軍事と無縁な都市ではなかったという事実です。展示冒頭で紹介される明治末期の東京の地図からは、陸軍の師団や軍事施設が密集していたことが分かります。

「東京は敗戦まで、日本で最も軍隊が集中していた地域でした。1万人規模の師団が2つあり、陸海軍の中枢機関も集まっていました」(吉田さん)

横浜の北には軍都東京、南には海軍の一大拠点である横須賀がありました。横浜は、その2つの巨大な軍事拠点に挟まれた位置にありました。横浜は常に周辺の軍事拠点の影響を受けながら、都市としてのかたちを整えてきました。

 

横浜は、日本が外国の軍隊と初めて直接向き合った場所


神奈川宿付近から横浜応接所を望む図(幕末期『黒船来航絵巻』横浜開港資料館所蔵)

横浜と軍隊の関係は、1853年の黒船来航にさかのぼります。ペリー艦隊は日本へ開国を迫り、最終的に複数の軍艦が横浜沖に停泊しました。

「横浜は、日本が外国の軍隊と初めて直接向き合った場所でした」(吉田さん)

開港後、尊王攘夷運動が高まると、外国側は自国民を守るため、横浜沖に軍艦を常時停泊させ、非常時には兵力を陸上に上陸させる体制を整えます。さらに山手には、フランス軍やイギリス軍が部隊を展開しました。

こうした外国勢力に対し、幕府側も防衛策を講じました。「神奈川台場」の建設や、現在の日ノ出町一帯に置かれた幕府軍の拠点「太田陣屋」はその象徴です。


太田陣屋英式調練の図(幕末維新期、横浜市中央図書館蔵)

こうして横浜は外国の軍隊と接する場所になったことで、防衛の最前線として位置づけられていきました。ただし、そこは単純に軍事力と軍事力が衝突する場だったわけではありません。

当時の幕府の軍事体制は、近世以来の枠組みと大きく変化しておらず、西洋列強の軍事力とは大きな差がありました。そのため武力による対峙以上に、「学ぶ場」としての側面が強くなっていきます。太田陣屋には、当初は福井藩の兵力が集結し、その後、幕府の兵力が配置されました。ここで日本の武士たちは、間近で西洋の軍事技術や装備、訓練のあり方に触れることになります。

当時の様子は、イギリスの新聞に掲載された挿絵などにも描かれています。そこには、従来の和装とは異なる装いで、西洋式の軍事訓練を取り入れていく武士たちの姿が確認できます。太田陣屋は西洋の軍事技術を学ぶ場でもあったのです。


洋装化する日本の軍隊(1866年5月19日『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)

明治維新後、陸軍の重心は次第に東京へ移り、横浜から兵力は引き上げられていきます。その背景には鉄道網が整備されたことにありました。

「何かあれば、東京からすぐに兵力を動かせるようになったことで横浜から兵力がなくなっていきました」(吉田さん)

一方、海軍は横浜に鎮守府を置いていましたが、次第に横須賀へと移っていきます。造船所をはじめとする軍事施設が整備された横須賀の方が適していると判断されたためです。その結果、1884年(明治17年)に、鎮守府は横浜から横須賀へ移転しました。

 

神社や寺院に残る痕跡


橘樹群出身征清陣亡軍人招魂碑(2025年11月撮影 川崎大師平間寺境内)

しかし、横浜から軍の存在が完全に消えたわけではありませんでした。

横浜には、軍事行政を担う拠点が引き続き置かれていました。その一つが、1888年に設けられた「大隊区司令部」です。これは、1873年に導入された徴兵制度を運営するための施設で、部隊の駐屯地ではないものの、軍の制度を地域で支える重要な役割を果たしていました。

この横浜大隊区司令部が置かれた場所が現在の三春台周辺です。現在は関東学院中学校・高等学校がある一帯ですが、かつてこの地域は「兵隊山」と呼ばれていました。地名や通称を丹念に調べていくと、戦争の痕跡が浮かび上がります。

そして時代が進み、日清戦争、日露戦争と対外戦争を経験するなかで、今度は戦地に赴いた兵士たちを悼むための施設が各地につくられていきます。

横浜市周辺には多くの招魂碑が建立されましたが、代表的なのは川崎市の川崎大師の境内にある「橘樹群招魂碑」です。この碑は、現在の横浜市港北区や神奈川区などの出身者によって建立されたもので、銅製の招魂碑という点でも非常に珍しい存在です。金属製の招魂碑は全国的にも数が少なく、戦争の記憶を今に伝える貴重な資料となっています。

また、横浜市内の神社を見渡すと、境内の随所に戦争を語る要素が見つかります。その一例が「砲弾狛犬」です。砲弾狛犬は、大砲の弾を抱える姿をした狛犬で、本牧の吾妻神社やお三の宮・日枝神社などに同型のものが残されています。これらは日露戦争での戦勝を記念して奉納されたものでした。

神社や寺院、地名や通称といった身近な存在を丁寧に見直していくことで、横浜に暮らしていた人々が、どのように戦争と関わってきたのかが浮かび上がってくるのです。

 

関東大震災がもたらした決定的な転換

横浜と軍隊の関係を大きく変えた出来事が、1923年の関東大震災です。それ以前の横浜は軍事施設の少ない都市でした。しかし震災によって街は半日で壊滅状態に陥り、警察や行政機能も麻痺します。横浜には常駐部隊がなかったので、救援は後回しにされました。

この経験から、横浜では軍隊の誘致運動が起こります。防災や治安維持への期待に加え、軍隊がもたらす経済効果への期待もありました。

「当時、軍隊の誘致は地域振興策として全国的に行われていました」(吉田さん)

しかし、当時は第一次世界大戦後の世界的な軍縮の流れもあり、横浜側の思惑通りに正規の部隊が配置されることはありませんでした。その一方で、正規部隊に代わって配置されたのが、治安維持を担う憲兵です。憲兵の常駐は、日本が敗戦を迎えるまで続きました。

 

市民の思いとは裏腹に、軍は再び横浜へ


横浜市三千分一地形図「元石川」(1954年12月測図、横浜市史料室所蔵)

軍は横浜市民の軍隊誘致運動の要望に応えることはありませんでしたが、戦時体制が本格化すると状況は一変します。この時期になると、軍は横浜に射撃場や弾薬庫、軍需工場を建設していきます。

展示されている地図には、そうした痕跡がどこにあるのかが示されています。地図左下に、不自然に整った長方形の地形が確認できます。これは、陸軍の射撃場跡です。

この射撃場は、現在のたまプラーザ周辺に設けられました。周囲を三方から丘に囲まれ、中央部だけが低くなっている地形は、射撃場として非常に適した条件を備えていたのです。

さらに、横浜市北部には、もう一つ重要な軍事施設が設けられました。それが、現在のこどもの国周辺に置かれた弾薬庫です。ここでは弾薬が製造・保管され、各部隊へと送られていました。現在も敷地内には弾薬庫跡が残っており、軍事施設がこの地域に存在していたことを物語っています。

今回の展示では、この弾薬庫に保管されていた薬莢が資料として展示されています。こうした実物資料と地形・景観の痕跡をあわせて見ることで、身近な土地や風景の中に戦争の跡が残っていることが実感できます。

 

敗戦と占領、そして戦後へ続く記憶

YOKOHAMA CITY MAP(昭和戦後期、米国国立公文書館所蔵、横浜市史料室提供)

第二次世界大戦が進行するにつれ、横浜周辺では北と南から軍事設備や軍事区域が拡大していきました。日本の戦況が悪化する中で地域の軍事化は進み、空襲被害も深刻化します。

敗戦を迎えると、横浜はさらに大きな転換を迎えます。横浜市中心部は、アメリカ軍による日本占領の拠点となり、占領政策を担った第八軍の司令部が置かれました。市街地の広範囲が接収され、若葉町周辺には滑走路を備えた飛行場も建設されるなど、 横浜は「米軍の街」として再編されていきます。

1952年、サンフランシスコ平和条約の発効により日本は主権を回復しますが、横浜には引き続き米軍基地が残されました。冷戦構造の中で再軍備が進められ、横浜市内には自衛隊の部隊も配置されます。初期には高射砲部隊が置かれ、防空の役割を担いましたが、これらの部隊はおおむね10年ほどで撤退しています。一方、米軍はその後も長く駐留を続けました。

ベトナム戦争が本格化すると、米軍基地の存在はさらに重みを増します。横浜市にとっての大きな課題は、基地をどのように返還していくかという点に移っていきました。接収解除をめぐる交渉は戦後の市政における重要なテーマとなります。

戦後も横浜港では軍事交流が続き、多くの軍艦が寄港してきました。今も自衛隊艦艇などが入港しています。近年は基地返還が進み、その跡地をいかに活用し、 横浜の発展につなげていくかが問われています。

このように戦争の記憶は証言だけでなく、街の形や土地の使われ方、風景の中にも刻まれています。横浜の足元に残された120年の記憶を見つめ直すことは、これからの都市と社会のあり方を考える手がかりにもなります。

 

横浜都市発展記念館 特別展「戦争の記憶 横浜と軍隊の120年」

【開催期間】2026年1月24日(土)から2026年4月12日(日)まで
【開館時間】午前9時30分~午後5時(券売は閉館の30分前まで)
【休館日】毎週月曜日(月曜が祝休日の場合は開館し、翌平日が休館)

 

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