土方歳三は、勝岩に布陣していたのか
流山で近藤勇が新政府軍の出頭に応じると隊士たちは会津へ向かい、すでに傷病者を率いて会津入りしていた山口次郎こと斎藤一らと合流し、数次にわたる白河の攻防戦に参加していた。
猪苗代湖南岸の村に休陣していた新選組は慶応4年8月17日、会津藩の命を受けて猪苗代城下へと出陣した。このことは『谷口四郎兵衛日記』に「十七日、猪苗代城下に出陣す。土方はじめ新選組同じ」と記録されている。
この『谷口四郎兵衛日記』は「谷口四郎兵衛」という名前を冠しているものの、仙台で入隊し、箱館戦争を戦った桑名藩士の谷口四郎兵衛本人の日記ではなく、伝習第一大隊の隊士による記録で、おそらくは同隊で嚮導役をつとめ、仙台で新選組に加入した山形時太郎の筆記と思われる。どのような経緯があってか、谷口が所持していたため『谷口四郎兵衛日記』と称されているに過ぎない。
すでに大鳥圭介の率いる伝習第二大隊は若松城下を発し、猪苗代城下に着陣しており、新選組も19日には彼らとともに母成峠布陣を命じられるのだが、『谷口四郎兵衛日記』が記すように土方歳三が新選組を率いて猪苗代へ向かった事実はない。率いていたのは会津で隊長役をつとめていた斎藤一である。
湖南の福良村本陣・武藤家から白河の商家の養子となった荒井治良右衛門は、白河城下での戦火を逃れて福良に滞在しており、日々の出来事を日記(『荒井治良右衛門慶応日記』。以下『慶応日記』)に綴っていた。
その『慶応日記』の8月19日の項に「内藤様、土方様、中地より本家へ御入り」とある。「内藤様」は中地方面の会津藩陣将・内藤介右衛門、「中地」は現在の郡山市湖南町中野南町、「本家」は福良村本陣の武藤家のことだ。
猪苗代城下に滞陣していた新選組が母成峠へ向かった当日にも、土方は福良村にとどまっていたのである。
母成峠の会津藩の陣営に到着した新選組は、間道からの敵兵の進出に備えた勝岩の守備を命じられ、7月29日に出陣を命じられていた、大鳥圭介率いる伝習第二大隊とともに布陣する。
21日朝、大鳥は「勝岩の下方には第一大隊、新撰組合併の陣人にて防ぎたりしが、余(大鳥)心元(許)なく思い、少し下りてこれを見るに、人数も少なく撒布の法も宜しからず、余種々これを指揮し置き……」(『南柯紀行』)と、新選組の配備状況を修正させているのだが、これも新選組を指揮していたのが土方ではなく、まだ25歳と若い斎藤であったからこその助言だろう。歴戦の土方の指揮によるものであれば、大鳥もあえて黙認したのではないだろうか。
それから間もなく母成峠の戦いが勃発し、新選組は旧幕軍や会津等の藩兵とともに敗走するのだが、『若松記草稿』には「将軍山(母成峠)に新撰組山口次郎、士官並びに歩兵、合わせて120余引率出張してありしが、21日、戦敗れて散乱し……」と、新選組の指揮官を斎藤としている。
土方の姿が確認できるのは、敗走後のことだ。
『谷口四郎兵衛日記』は「土方、雉(木地)小屋脇胸壁(に)出張、防戦す。(中略)須賀埜(酸川野)村に兵を集め、土方率して一戦。敗れて猪苗代に行く」と、土方が母成峠から猪苗代方面ヘ10キロほどの木地小屋(猪苗代町若宮)の胸壁で防戦したが、敗走したことを伝えている。
母成峠での開戦を知って土方は出陣したのだが、福良村から木地小屋までは現在の道路でも20数キロあるため、時間的に木地小屋や近くの酸川野村(猪苗代町若宮)で防戦することは難しい。おそらく、土方は20日に福良村より猪苗代城下に移っていたのだろう。
敗走した日の午後8時ごろ、土方は援軍を求める手紙を書いていた。
いよいよもって御大切と相成り候。明朝までには必ず猪苗代へ押し来たり申すべく候間、諸口兵隊残らず御廻し相成り候よう致したく候。左も御座なく候わば、明日中に若松までも押し来たり申すべく候間、この段申し上げ奉り候。以上。
二十一日夜五ツ 土方 歳三
宛先は「内藤君」「小原君」とあるが、内藤は前出の内藤介右衛門、小原は御霊櫃峠を守備する大砲隊の隊長である。土方はこの2人に猪苗代防戦のため出兵を求めたのだが、ついに彼らが出陣することはなく、22日に毋成峠を突破した新政府軍は猪苗代に進軍し、会津藩は23日より籠城戦に突入するのである。