自分の頭で考えていない人ほど「こうあるべき」に縛られる 心がラクになる思考の切り替え方
2026年09月14日 公開
「親の世話は子が見るべき」「コレステロールは下げるべき」—そんな世間の当たり前に縛られていませんか?常識の盲信は心身を壊す原因に。「こうあるべき」を手放し、「自分はどうしたいか」で選択する心を軽くする思考法を精神科医・和田秀樹氏が解説します。
※本稿は、和田秀樹著『落ち込まない 考えすぎない気持ちの整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「こうあるべき」と思うのは、自分の頭で考えていないから
「1+1=2」ほとんどの人は、これが当たり前と考えます。しかし、当たり前でない人もいるのです。
発明家として知られるトーマス・エジソンは、「粘土一つと粘土一つをくっつけたら、大きい粘土一つになるじゃないか」と教師に食ってかかったそうです。天才的発明家となる人は、目のつけどころが違います。
このように、「当たり前」に疑問を持つことができる人を活かし育てる土壌が、日本には十分にあるでしょうか。
日本の義務教育では、先生のいうことを素直に覚え、素直に行動することが求められます。いわば「刷り込みの教育」です。
義務教育の段階では、基礎的な知識を効率よく学ぶためにこの手法が有効なこともあります。しかし、高等教育では、そのあり方を転換すべきではないでしょうか。
つまり、それまで刷り込まれた価値観を疑い、自分なりの仮説を立て、納得できる答えを導き出す力を養うことに重点を置くべきなのです。知識や情報を疑い、新しい発想でものごとを生み出す力を育むことが、個人にとっても社会全体にとっても有益だからです。
実際、多くの欧米諸国では、そのような教育が行われています。ある課題について、教師が「これはこういうことだ」と教えるのではなく、生徒一人ひとりに「どう考えるか?」を問い、ディベートさせるのです。
こうした環境で育った人たちは、会話の中で次のようなやり取りをよくします。
「自分の意見はこうだ」
「君はそう言うけれど、そうとも限らない」
「一般的にはこう考えられているが、例外もある」
辟易することもありますが、こうしたやり取りを通じて、議論は深まり、建設的な結論が導かれることも事実です。根底にあるのは、既成概念を疑う姿勢であり、常識に縛られず、新しい価値を生み出そうとするスピリットなのです。
一方、日本の高校や大学では、依然として「刷り込み型の教育」が主流です。そのため、「こうあるべき思考」が根づきやすい土壌ができてしまいます。
その影響は、社会にも広がります。指示待ち人間が増え、自分の頭で思考し判断するよりも、親や上司、組織などの「権威ある存在」の意見に依存する傾向が強まります。その結果、「こうあるべき」という考え方に固執しがちになるのです。
例えば、男女平等が憲法で定められていても、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という価値観をいまだに引きずる人が少なくありません。官庁や企業でも、縦社会の文化が色濃く残り、組織や権力者の言うことを疑わずに受け入れる人が重宝される傾向があります。
こうした社会では、「こうあるべき」に従って行動したほうが、摩擦を避けられ、安心して過ごせるというメリットがあります。しかし、その代償として、個人の自由な思考や主体性が損なわれてしまいます。
さらに問題なのは、この「こうあるべき思考」が、個人の悩みや不安を生む原因になることです。
人は、自分自身の中にも「こうあるべき」という理想を作り、それに縛られることがあります。「もっと仕事ができるべき」「もっと社交的であるべき」「もっと完璧であるべき」といった思い込みが、必要以上に自分を苦しめるのです。「こうあるべき」の呪縛から抜け出し、不安や悩みのループを断ち切るために、まず大切なのは、「本当にそれは正しいのか?」と自分に問いかける習慣を持つことです。
「こうあるべき」という思考が浮かんだとき、それが単なる思い込みなのか、それとも本当に自分にとって必要な考え方なのかを冷静に見極めることが大切です。
次に、「こうあるべき」ではなく「自分はどうしたいのか?」を意識することです。「こうあるべき」とは「世間ではこうするのが普通」「上司がこう言った」といった外部の基準です。しかし、自分自身が本当に望むことに焦点を当てることで、主体的な選択ができるようになり、不安に振り回されなくなります。
また、「こうあるべき」ではなく「こうしてもいい」という発想も重要です。ものごとには一つの正解だけがあるわけではなく、複数の選択肢があると考えると、悩みや不安が次に踏み出すエネルギーになります。
「こうしなければならない」という思考を少し緩めて「こうしてみてもいい」と考えられるようになることが、自由で前向きな生き方につながるのです。
「世間の正解」に従うと、心も体も壊れていく
私が長年取り組んでいる老年医療の現場でも、「親の面倒は子が見るべき」という考えから、在宅介護を望まれるご家族が多く見受けられます。親の愛情や家族の絆に重きを置き、「子どもが介護をする」のが理想とされ、世間的にも求められます。
しかし、自宅での介護では、子どもは自分の時間や生活をある程度、犠牲にする必要がどうしてもあります。仕事を辞める人も少なくありません。心身へのストレス、疲労も並大抵ではありません。
そうしたことから、介護者がうつになったり、親を虐待する事態も起こったりしています。私も、親の介護をしている人から「親への愛情が持てなくなった」「親を憎むようになってしまった」などの相談を受けることがあります。
介護施設での虐待が報道されることがありますが、実は表に出にくいだけで、在宅介護の場での虐待はより深刻なのです。
そのような現実を知ってもらいたいという動機から、私は2012年、映画監督として『「わたし」の人生~我が命のタンゴ』という映画を撮りました。その映画について雑誌のインタビューを受けたとき、私は「最後まで在宅介護をがんばって、感動して終わる映画ではありません」と答えました。
医療の世界でも「当たり前の常識」とされていることが、健康を損ないかねない「危険な常識」であることがままあります。
例えば「コレステロール値」についてです。コレステロール、特に肉類などの動物性食品に多く含まれるLDLコレステロールは、日本では「悪玉コレステロール」と呼ばれ、生活習慣病を引き起こす元凶と考えられています。
そのため、とりわけ中高年の方たちはとかくLDLコレステロール値を下げることに躍起になるのですが、健康上どれほどの意味があるかは疑問です。下手をすると病気になりやすい体になるリスクがあるのです。
LDLコレステロールは、肝臓で作られる細胞膜やホルモンの材料となるコレステロールを全身に運ぶという重要な役目があります。
LDLコレステロールが不足すると、生命や健康を維持するための体内の機能にさまざまな支障が生じます。特に免疫機能への悪影響は大きく、がんの発症リスクが高まったり、細菌やウイルスによる感染症にかかりやすくなったりします。
実際、コレステロール値が高い人のほうが、がんによる死亡率が低いことが、ハワイでの研究からも明らかにされています。
また、1970年代から1990年頃にかけて「コレステロール値は高いほうがいい」という説を唱える故柴田博先生という医学博士が主導して、東京都小金井市で70歳以上の高齢者を対象に行われた追跡調査では「コレステロール値が高いほうが総死亡率が低い」ことが実証されました。
しかし、日本の医学界はこれを無視して、アメリカから移入された「コレステロール値は低いほうがよい」という説を固持し続けたのです。
2008年以降、健康診断において実質義務化されたメタボ健診で、コレステロール値が高い結果が出た人には、積極的にコレステロール値を下げる指導や、薬剤による治療が行われてきました。
こうした経緯から「健康のためにはコレステロール値を低くしなければならない」がいつしか常識として浸透したのです。
もっとも、近年では「コレステロールは体に悪い」「メタボは寿命を縮める」という従来説を覆す調査・研究結果が次々と公表され、総コレステロールの基準値も、2023年4月に、それまでの150~219か142~248に変更されています。
それでもなお、古い常識にこだわる医師や一般の人々の間で、相変わらずコレステロール値を下げることに執心する人が多いのが実情です。
「こうあるべき」という常識によって、疑う力が削がれ、弾力的な考え方ができなくなることは多いのです。こうした常識に縛られたままだと、私たちは現実とのギャップに悩み続け、不安を増大させることになります。
まず大切なのは、「それは本当に自分にとって必要な考え方なのか?」と問い直すことです。「○○すべき」と感じたとき、その考えが「自分にとって本当に役に立つのか?」を見極める習慣を持つことで、不安を減らし、より前向きな選択ができるようになります。
「こうあるべき」を手放して「こんなもんだ」思考にシフトする
また、「こうあるべき」ではなく、「こうしてもいい」という発想を持つことも重要です。「こうしなければならない」と思い込むと、選択肢が狭まり、不安や悩みが増幅します。しかし、「これも一つの選択肢だ」と考えれば、プレッシャーから解放され、建設的にものごとを考えられるようになります。
「こうあるべき」から生まれる不安や悩みは、視点を変えるだけで軽減することができます。常識にとらわれるのではなく、「自分にとって何が最適か?」を考える習慣を持つことが不安を減らし、より自由で前向きな人生を生きるための第一歩になるのです。
「当たり前」「こうあるべき」という理想と現実とのギャップについてお話ししましたが、このようギャップは、あなたの日常でも感じることがあるのではないでしょうか。
さまざまな「当たり前」「こうあるべき」をマイ・ルールのように自分に課している方は少なくないと思います。ですが、自分の中にあるマイ・ルールは、実際にその通りに実行されているでしょうか?「こうあるべき」は達成されているでしょうか?
おそらく多くの方の場合、現実の自分との間に、ギャップを感じているのではないでしょうか。そして「自分はこんなこともできないのか」「自分はなんてダメなんだろう」と、劣等感や自己嫌悪を感じる人もいるでしょう。
森田療法では、このように理想と現実とのギャップに悩むことを「思想の矛盾」と呼んでいます。
「当たり前」「こうあるべき」という考えや理想と、現実の自分の間にギャップが生じるのは、むしろそのほうが当たり前です。世の中はすべてが理想通りに成り立っているものではありません。どんな人にも、理想通りにいかないことがあって当然なのです。
問題は、「当たり前」「こうあるべき」に、どこまでもこだわる必要があるのかどうかです。
例えば、以下のような「当たり前」「こうあるべき」があります。
「上司は部下の模範だ。仕事は完璧にこなすべきだ」
「上司の期待には応えるべきだ」
「休日は親子の会話を大切にして、家族サービスに努めるべきだ」
「家族の健康のためにも、食事作りは手を抜くべきではない」
これらを貫き続けることは困難ですし、現実には思い描いた結果にならないことも多々あります。
上司といえども当然ミスもすれば失敗もします。ミスや失敗をごまかそうとすれば、かえって信頼を失うでしょう。失敗したら、失敗を繰り返さないためにどうすべきかを示すことこそ大事です。
また、上司の期待に応えなければと身構えると、かえって力を発揮できないことは少なくありません。力みすぎずに仕事に臨んだほうがうまくいくことは多いのです。
休日は親子の会話といっても、子どもがゲームに夢中になっていたり、友達と遊びに出掛けてしまったりすることもあるでしょう。子どもにもやりたいことがあるのです。自分自身も平日の仕事の疲れを、休日に回復させたいでしょう。そんな状態で家族サービスに努めて、本当に家族のためになるかは疑問です。
また、たまに食事の準備で手抜きをしても、それが家族の健康を損なうことに直結するわけではありません。それに健康作りは家族一人ひとりの仕事でもあるのです。誰か1人だけが、責任を負う必要はありません。
自分を高めるための目標として「こうあるべき」を掲げるのは、それはそれで意味のあることです。しかし、理想通りにいかないことで「自分は情けない」とか「自分は未熟だ」「ダメな人間だ」などと悩むのは建設的ではありません。
自分を高めていくには、まずは現実を受け止める。そこから、「少しずつ理想に近づけるといいな」という気持ちで、できることをできる範囲でやっていけばよいのです。
そして、うまくいかなかったときは「こんなもんだ」「そういうこともあるさ」と自分を肯定することです。
「こうあるべき」をもっと柔軟に受け止めることで、臨機応変に、自由にものごとを考える余裕ができます。そうした自由な発想こそが、よりよい自分を作る成長のチャンスを与えてくれるものとなるのです。