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「AKB48」キャラ消費の進化論

斎藤環(精神科医)

2010年11月08日 公開 2022年11月14日 更新

「キャラ消費」の循環システム

僕のみるところ、AKB人気の最大の要因は「キャラ消費」ということに尽きる。言い換えるなら、アイドルの人気をその記述的要素、たとえば顔の美醜をはじめとする身体的スペック、あるいは歌唱力や演技力を含む各種のスキル、あるいは「世界観」の設定などに求めてもあまり意味はない。それらは入り口においては重要かもしれないが、人気の維持において最も重要なのは、アイドルの「キャラ」なのだから。

ここでいう「キャラ」とは、「キャラが立つ」「キャラがかぶる」などと日常的に使われている意味での「キャラ」である。漫画好きの麻生元総理が使って有名になったが、もともとは漫画やお笑い業界などで使われていた言葉だ。いまはほぼ日常語といってよいだろう。

一見「性格」と同義語にもみえるが、必ずしもそうではない。というのも、性格という言葉には個人のなにがしかの本質があるといまなお思われているが、「キャラ」は本質とは無関係な「役割」にすぎないからだ。

つまり、ある人間関係やグループの内部において、その個人の立ち位置を示す座標が「キャラ」なのである。それゆえ所属する集団や関係性が変わると、キャラも変わってしまうことがよくある。

AKB人気の構造分析を試みるなら、とりあえずはこうしたキャラ消費の様相を理解しなければ先に進めない。もちろん各メンバーに固定的なキャラが割り振られているわけではないが、大島優子がおっさんキャラで高橋みなみがすべりキャラで、板野友美がギャルキャラで、という具合の差異化がなされているのは周知のとおり。逆にキャラに注目するなら、AKBのあの"人数"や、"成長過程をみせる"という戦略がいかに重要であるかがよくわかる。

まず"人数"だ。48人という人数は、一つのクラスを連想させる。いじめ研究者などのあいだではよく知られた事実だが、現代の中高生の教室空間は、いわば「キャラの生態系」と化している。

人数分の異なったキャラが存在し、棲み分けているのだ。ここでは暗黙の了解事項として「キャラがかぶる」「キャラが変わる」といった事態は慎重に回避される。また、この空間においてひとたび「いじられキャラ」などと認定されれば、少なくとも次のクラス替えまでは「いじめ」や「いじり」の対象になってしまう。

それでもキャラ文化が強いのは、そこにメリットもあるからだ。その最大のものは「コミュニケーションの円滑化」である。自分のキャラと相手のキャラがわかっていれば、コミュニケーションのモードもおのずから定まってくる。キャラというコードが便利なのは、元の性格が複雑だろうと単純だろうと、一様にキャラという枠組みに引き寄せてしまう力があるからだ。

AKBではさらに「チームA」「チームB」といったサブグループがあり、それがキャラ分化をいっそう容易にしている面もあるだろう。キャラ化において重要なのは関係性であり、下位分類を含む40人程度の集団は、キャラの多様性を一気に把握するうえで、ちょうどいいサイズということになる。

あまり指摘されていないことだが、キャラの分化を強力に促進するもう一つの要因として、「序列化」がある。

たとえば教室空間においては「スクールカースト」と呼ばれる序列がしばしば存在する。これはコミュニケーション・スキルの高い上位集団からスキルの低い下位集団にまで至る「教室内身分制」だ。

いったんこれが成立すると、たとえば上位者が下位者をいじめるといった関係性は固定的なものになりやすい。かくして「いじめキャラ」や「ドSキャラ」と、「いじられキャラ」「非モテキャラ」などの関係性が時とともに強化されていく。

カンのいい人はおわかりのとおり、僕はここで、あの批判も多かった「AKB総選挙」の意義を指摘しているのだ。2010年6月に行なわれた「総選挙」は、ファンによる人気投票でAKBメンバーの序列を決定づける重要な行事である。

選抜メンバー中上位12名は「メディア選抜」としてテレビ番組や雑誌などのプロモーションに出演することが可能になる。また上位21名は「選抜メンバー」としてシングル曲を歌う権利を獲得する。22位以下は、その名も「アンダーガールズ」と呼ばれる下位集団に所属させられることになる。

こうした人気投票を残酷と評する意見もあるようだが、僕にはむしろ透明でフェアな序列化の手続きとも思われるため、一概に否定するつもりはない。

重要なのは、こうした序列化の手続きによって、キャラを決定づけるためのレイヤー(層)はいっそう複雑化し、これとともにメンバーのキャラ分化もいっそう細やかなものへと進化するということだ。

以上を整理するとこういうことになる。AKBは、「集団力動」にサブグループや序列化という「構造的力動」を加味することで、各メンバーのキャラを固定化し、認識しやすいシステムをつくりあげた。

ファンは、彼女たちのキャラを消費したいという欲望によって動機づけられ、さらに自らの欲望が序列化を介して直接「推しメン(自分が支持しているメンバー)」のキャラ形成に関わりうるという事実によって、いっそう強く動機づけられていく。つまりそこには、理想的な意味での「キャラ消費」の循環システムが成立しつつあるのだ。

ところで、アイドルの人気を僕のように「キャラ消費」としてとらえることに違和感を覚える人もいるだろう。しかしアイドル人気がもともと“手が届きそうで届かない存在”への仮想的な欲望によって支えられていたことを考えるなら、そこには一般的な歌手や女優への憧れ以上に、「ファンを演じている」という自意識が育まれやすくなる。

アイドル歌手のコンサートなどで、要所要所に「○○ちゃーん」などと野太い声援が入るようになったのは70年代後半あたりからだが、この時期がオタクの黎明期と重なり合うのは偶然ではない。

「ファンというキャラを演ずる自意識」の誕生は「萌え」の発生を準備し、キャラ的な自意識のもとで、アイドルのキャラ化もいっそう補強したと考えられるからだ。

 

最終進化形としてのアイドル

こうしたキャラ消費の発展段階は、大まかにみて4段階ほどに分類できる。

もっとも素朴でプリミティブな段階としては、クラスのアイドルへの憧れといった状況を想定しておこう。もちろん片思いからはじまるわけだが、相互性がまったくないわけではない。

班が一緒になって口を利いたり、フォークダンスで手が触れあったり、委員や当番を一緒にやることで距離が接近したりすることもあるだろう。いわばアイドルへのキャラを自らの感情と等価交換しているような段階だ。この段階を「アイドル消費A」と名づけよう。

次にやってくるのは、70年代におけるアイドル人気の段階だ。プロダクションによる管理のもと、ファンはレコードやコンサートにお金を支払い、キャラクターを消費する。ここで初めて、キャラクター消費に金銭が介在するようになる。

プロダクションの管理はファンを苛立たせもするが、著作権や貨幣を介したその都度の契約関係にファンも合意せざるをえないため、このシステムに甘んずるほかはない。ファンはシステムに定期的に年貢を納め、システムはキャラクターを再分配する。この段階を「アイドル消費B」としよう。

80年代から90年代にかけて、おニャン子やハロプロが実現したことは、プロダクションがアイドル個人を完璧に管理することをやめ、集団力動に加えてメンバー個人のスキャンダルなども取り込みながら、そこに自生する秩序に従ってキャラが成立していくプロセスそのものを利用する、という手法であったように思われる。

とりわけ90年代後半以降は、ネットの普及が状況を複雑化し、情報管理が困難になったということもある。この段階が「アイドル消費C」に当たる。

 アイドルの「集団力動」が、いかにしてキャラ生成に寄与するのか。これについては、興味深い証言があるので紹介しておきたい。

松本美香『ジャニヲタ女のケモノ道』(双葉社)がそれだ。「ジャニヲタ」とは「ジャニーズ事務所所属のタレントのオタク」を指す。彼女によれば、「ジャニヲタ」のキャラ消費のありようは、「モーヲタ(=モーニング娘。のファン)」に似ているらしい。さらに重要な証言は「キャラ萌え」に関するくだりである。

「ジャニーズタレントくんら最大の“魅力”かつ“売り”は『キャラ』なんですよね。バラエティー番組に出演する機会が多いからどうしても最も求められるのがそれなんだろうけど、今の時代はまずアイドルったってキャラが立ってないと覚えてもらえないしTVに出られない」

「もちろん、とっかかりは『顔』ですよ。でもね、『顔』はあくまでも『入り口』でしかない。〈中略〉あまり好みのルックスじゃなくてもキャラがツボった瞬間に『恋のメガネ』を装着!」

「ジャニヲタの基本は『キャラ萌え』と言っても過言じゃないかも」(いずれも、前掲書)

顔よりもキャラ重視というファン心理に関する指摘は重要である。

さらに松本氏によれば、ジャニヲタは「ジャニーズ」というブランド好きにほかならないとのことだ。彼女がその事実を発見したのは、自分が好きだったあるジャニーズのタレントが事務所を移籍したときだった。

ジャニーズ時代よりも追っかけが容易になって喜んでいた彼女は、次第に気持ちが冷めていく自分を発見して愕然とする。そう、彼女はそのタレント本人が好きだったわけではない。「ジャニーズ事務所に所属する彼」が好きだったのだ。

彼女はその心理を「ジャニーズの世界観の魅力」や事務所の「ファミリー感」が原因であるとしているが、この感覚もある程度はAKBファンに通ずるのではないか。松本氏の指摘が興味深いのは、ジャニーズ人気における「キャラ萌え」要素と「ブランド」要素をはっきり結びつけた点にある。

その意味でAKB48もまた、「アイドル消費C」の段階にいるかにみえる。しかし僕の考えでは、すでにAKB人気はその先の段階、すなわち「アイドル消費D」の段階にある。

そう、おそらく「AKB商法」とは、現時点におけるキャラクター消費の最終進化形なのだ。むしろキャラ消費という点では先行していたはずのアニメ業界ですら、「AKB商法」に追随しつつある(人気アニメ『けいおん!』コミックスの書店別特典など)ことからも、それはよくわかる。

どういうことか。その鍵はやはり「総選挙」にあるだろう。

僕がここで展開してきた「アイドル消費A→D」の発展段階は、柄谷行人氏が『世界史の構造』(岩波書店)で述べている「交換様式A→D」の段階分類からヒントを得たものだ。

その詳しい対応関係の検討は別の機会に譲るが、ここで重要なことは柄谷氏が、もっとも高次元の交換様式Dの出現を、もっとも原始的な互酬的交換Aの回復、それもフロイトのいう「抑圧されたものの回帰」としての回復であると述べている点だ。

柄谷氏がいうネーション、すなわち「想像の共同体」(B・アンダーソン)においては、失われたはずの互酬的交換が見かけ上回復される。僕には「握手会」や「総選挙」といった、キャラとの"直接"の触れあい、あるいはキャラの養成に"直接"関わりうるという「幻想」こそが、抑圧された互酬性=「アイドル消費A」の回復というかたちで、ファンの結束を高めているように思われてならない。

彼らはそれが幻想であることを知っている。しかし、あるいはそれゆえにこそ、彼らはますます「想像の共同体」に依存することになる。さらに完璧なことには、秋元氏自身がそうしたメカニズムの介在を、それほど明確には自覚していないようにみえることだ。仕掛け人すら無自覚な装置こそが、もっともうまく機能するだろう。

アイドルの三次元性=実在性なくしては成立しえなかった「アイドル消費D」のスタイルが、アニメやゲームのキャラ消費にいかなる影響をもたらしていくか。そのときアキハバラに何が起こるのか。この「実験」の行く末からは当分目が離せそうにない。

 

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