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元ヤクルト宮本慎也の「意識力」-意識ひとつで結果は変わる

宮本慎也(プロ野球解説者/評論家)

2014年03月25日 公開 2024年12月16日 更新

《PHP新書『意識力』より》

 

言い訳を叱責される

 2004年のアテネ五輪、2008年の北京五輪で日本代表チームのキャプテンを務めていたことから、私にはリーダーとしての資質があったと思われている方もいるだろう。口やかましいイメージがあったせいか、40歳を越えたあたりからは「球界のご意見番」としてメディアに意見を求められることも多かったが、とてもではないが、チームを引っ張っていくようなタイプの選手ではなかった。

 アマチュア時代にはよく怒鳴られていた。

 自分のなかで「これは変わらなければいけないな」と気づくことができたのは、同志社大学でのある経験からだった。

 1年生の時のことだ。秋のリーグ戦の期間中に、雨が降っていた。とても練習ができるようなグラウンド状態ではない。私と3年生の先輩1人が屋根がある場所で固まって話をしていた。一方で、4年生の先輩が雨のなか、グラウンドを走っていた。それを見た技術顧問のおじいちゃんが「あいつは最後のシーズンで一生懸命やっているのに、何をお前らはぺちゃぺちゃしゃべっているんだ」と私を含めた3人に平手打ちを1回ずつしたのだ。

 実際には、普段はあまり練習をしない先輩が、天邪鬼な性格だったのか、雨が降ったからといって、急に練習をしていただけだった。とはいえ、技術顧問の指示は絶対だ。私は監督に反省文を提出することになってしまった。

 私が提出した反省文は、そんなつもりは毛頭なかったが、言い訳ばかりととられたようだった。それを読んだ当時の野口真一監督に、呼び出された。

 「お前の文章は、言い訳ばかりだ。男だったら、男らしく失敗は認めろ。失敗を認めるから、反省して次に進める。ここで言い訳がうまくいって逃れることができたら、また同じことをするだろう」

 こう言われた時に、ハッとしたのである。

 ミスの原因を突きつめて、次への対策を見つけることが反省だ。似ているようでいて、言い訳と反省は違う。ミスを認めるからこそ、反省して次に進める。

 それまでは、失敗をした時にミスを認めるのは、恥ずかしいことだと思っていた。なんとか言い逃れをしようとしていた。しかし、それでは反省をしたことにはならない。

 失敗は誰でもするものだ。進んで失敗をする人間はいない。それを誰かや何かのせいにして逃げていたら、また同じ失敗を繰り返してしまう。

 言い訳をするということは、他人に責任を転嫁することで自分のプライドを守ろうとしているだけである。野口監督も「このままでは本人のためにならない」と思って厳しく接してくれたのだと思う。失敗を認めることが、成長への第一歩につながる。それからは、そう考えられるようになった。

 時代の流れだろうか。最近では、教え子や部下に優しく接する指導者や上司も多いという。しかし、ときには厳しく接することも必要だと思っている。教え子や部下が間違った方向に進みそうであれば、道を踏み誤らないように叱ったほうがよい。叱責が新たな気づきとなることも多いからだ。気づくことができるかどうかは、結局は当の本人にかかってくる。もちろん、自分で気づくことができなければいけないのだが、そのきっかけを他者から与えられることもある。

 指導者の立場になった時に、教え子に気づきを与えられるかどうかは、自らが気づいた経験があるかどうかにかかっているともいえる。人は、自分が経験したことがないことを他人に伝えるのは難しいからだ。

 「言い訳は進歩の敵である」

 この言葉をプロ野球に入って野村監督の口から聞いた時、大学時代の野口監督とのやり取りを思い出していた。

 

 

普段の行動こそ、野球の原点

 私の座右の銘は「球道即人道」である。

 この言葉はPL学園高校時代の恩師である中村順司監督(現・名古屋商科大学野球部監督)がよく口にしていた言葉で、卒業生には「球道即人道 中村順司」と筆で書いた色紙をプレゼントしてくれていた。元々は野球に力を入れていた御木徳近教祖の言葉で、感銘を受けた中村監督が部訓として使っていたのだそうだ。

 野球に打ち込む姿は、人生に向き合う姿勢に等しい。しっかりした人間、強い人間になろうと努力しなければ、野球でもよいプレーなどできるはずがない。そういう意味だと理解している。高校生の頃はなんとなくしか分かっていなかったと思うが、年齢を重ねるごとに言葉の重みを感じていった。

 中村監督の教えは、PL学園の野球教育そのものだった。当時のPL学園は全寮制で、集団生活はとても厳しいものだった。1年生の時は先輩より早く起きるのは当然なのだが、先輩が目覚めないように、目覚ましを鳴らして起きるのも禁止だった。起床時間を示す針と短針が重なる「カチッ」という小さな音で起きなければならなかった。「絶対に起きなければいけない」。そう思っていると不思議と起きられた。

 先輩に「おい、ちょっと来てくれ」と呼ばれて部屋に入ると、「そこのリモコンを取ってくれ」と言われることもあった。「自分で手を伸ばせば取れるでしょ」と思ったが、そんなことは言えるわけがない。上級生の指示は絶対で、1年生の時は上級生の「奴隷」だった。厳しい環境だったが、今でもゴルフで朝が早い時などは目覚ましが鳴る前に起きることができる。PL学園時代に鍛えられたことが、40歳を越えても身についているわけだ。

 周囲への気配り、目配りという部分でもだいぶ鍛えられたと思うが、忘れられないのが、中日で活躍した立浪和義さんの気遣いだった。

 高校時代に監督から「おい、ちょっと爪切りを取ってくれ」と言われた時のことである。爪を切る刃の部分を自分のほうに向けるのは当然。驚いたのは爪切りをあらかじめ開いて渡して、すぐに爪を切れるようにしていたことである。

 そこまで細やかな心遣いをできる10代がいるだろうか。改めて「この人はすごい」と思った。この気配り、目配りというのは野球に通じる。守っている時はランナーの動きはもちろん、ランナーコーチであったり、相手ベンチの些細な動きから、次に何が起こるかを想像することができる。一言でいえば洞察力なのだが、野球をしている時だけで鍛えられるものではないはずだ。

 立娘さんの気遣いは引退後の今も続いている。海外で一緒にゴルフを回った時のことだ。一緒にラウンドしていた人とホットドッグを買って食べたのだが、立浪さんは自分の紙ナプキンの上にケチャップの上澄みの透明な汁を出したうえで、ケチャップを適量つけて手渡したのである。こうした気遣いは間違いなく現役時代のプレーでも発揮されていたはずだ。

 

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