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生き方

メダリスト・有森裕子「やめたくなったら、こう考える」

有森裕子(元マラソン選手/スペシャルオリンピックス日本理事長)

2012年07月23日 公開 2022年11月14日 更新

環境や仕事を「変えたい」と思った時は、一度自分自身と向き合ってみるといいかもしれません。二大会連続メダリストの思考法をご紹介します。

※本稿は、有森裕子著『やめたくなったら、こう考える』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

一度やめると癖になる

それまで懸命にやりつづけてきた何かをやめる。わたしにとって、やめるのはとても勇気がいることです。

レースの途中で走るのをやめる、あきらめる、それはものすごく勇気がいること。まわりが必死に動いているなかで、自分一人だけが止まる。その瞬間に、それまで用意してきたすべてを捨てることを意味します。

「そんな大げさな。そのレースだけでしょ」と思われるかもしれません。でも、わたしたちマラソンランナーにしてみれば、それまでの数カ月、数年、いえ、それまでのキャリアを放棄するようなものなのです。

マラソンでは、絶対に途中で止まりたくないし、歩きたくない。わたしは心からそう思っていました。仕事としてのマラソンにかかわるときには、途中でリタイアすることは絶対にありえない。

「きちんとした準備ができていない状態でマラソンはやらない」

これがわたしの鉄則でした。

どうしても足が止まりそうになった経験が、過去に2回だけあります。

1回目は、初マラソンとなった1990年の大阪国際女子マラソン。足に痛みが出てしまい、途中からやめようと考えながら走っていました。「もう無理かな……」と心が挫けそうになった矢先、少年野球団の子どもたちが歩道にズラーッと並んで応援しているのが目に入った。さすがに、その子たちの目の前であっさりやめるわけにはいかないですよね。

どうしようかと考え、とりあえず給水ボトルの水を身体にかけてみました。冬だったので寒くて麻痺したのでしょう。痛みを感じなくなって、なんとか恥ずかしい思いをしないですんだのです。

やっとの思いで最後まで走りきることができたとはいえ、ゴールはほんとうに悲惨なものでした。足が動かないわけですから、腕をブンブン振りまわして、それはもうみっともないかたちで……。結果としては初マラソンの日本最高記録を出すことができたのですが、笑顔も何もなく、故障してしまったレースでした。

もう1つは、翌1991年に東京で行われた世界陸上。あのときは、練習もあまりうまくいっておらず、監督とももめたりして、雰囲気も徐々に悪くなっていました。もともと足に痛みもあり、全体の流れが悪かったんですね。そんな状態でなんとかまとめあげて挑んだレースでしたが、内容としてはお粗末なものでした。

そんなつらい経験はありますが、実際に途中でやめてしまったレースは1つもありません。2001年のゴールドコーストマラソンのときも、途中で足にマメができて、すごく痛くなった。市民マラソンのレースでしたので、引っ張って走ってくれていた人に「先に行ってください」とお願いしましたが、「ここまで来たんだから、いっしょに行こうよ!」と言われてとにかく走りつづけた。結局、その大会でわたしは優勝できました。

マラソンは、一度リタイアしたら癖がついてしまう。そう、やめるという行為は癖になるんですね。いったん走ることをやめてしまうと、それ以降、意外とラクにやめられるようになる。1回やってしまうと、同じ地点で毎回リタイアしてしまう人もいるくらい。心の中では「今回だけ……」と思っていても、身体が反応してしまうようです。

とくにマラソンの場合、30キロ地点でダメになり、フラフラとやめてしまう人は、次のレースでもだいたい30キロあたりでリタイアしてしまう。だからこそ、マラソンは途中でやめることは御法度なのです。

不思議なもので、たとえばハードル競技でも、一度引っかかって転んでしまうと、毎回、同じ場所で転んでしまうことがあると聞きます。これをトラウマというのか、精神的にコントロールできないものなのかもしれませんね。

試合という極限の精神状態にいると、そこで断行した“やめる”という究極の選択は、ずっと自分のなかに残ってしまう……。

途中でやめるくらいなら、最初から辞退したほうがいい。一度やると決めたことを途中でやめるよりは、最初からかかわらないと決心したほうがまだいいとわたしは思うのです。

 

仕事を替える前に、自分を変える

一度やめると癖になる。そのことは、スポーツの世界に限った話ではないと感じます。会社を「なんだか嫌だから」と一度やめてしまうと、ほかの会社に行っても辛抱がきかなくなります。やめることに抵抗感がなくなって、「また嫌になってきたからやめよう」と、容易に選択できてしまうのです。

いまは、現場を替えられる、会社を替えられる、実業団を替えられる、監督・コーチも替えられる。ともすれば学校の先生も替えられ、親はさすがに替えられないにしても、友だちやパートナーですら替えられると、とにかく何でも替えられる社会。

そのため、環境や仕事を替えることへの抵抗感がどんどん薄れているように感じます。嫌だと思ったら転職する、上司が嫌になったらやめればいい……。本来は、自分自身も何かを変えて、相手に合わせることも必要なはずなのに。

途中でギブアップしたいと思ったときには、ほんとうにやめるべきかどうか、わたしもそうとうに悩みます。みなさんも悩んでいないわけではないでしょうが、いざ、やめるとなると、それなりに理由がないと決断できないのではないでしょうか。

理由のなかには、自分からの理由、自分が原因となっている理由があるはずです。

「嫌だから」は、「あの人が嫌だ」「あの時間が嫌だ」と、相手やまわりに向けているようですが、嫌だという感情をつくったのは、ほかでもないあなた自身ですよね。まわりをそういう存在にしたのは自分にも理由があるわけで、自分自身の心が関与しているのです。

わたしはまず、そうした自分の理由を考える。とことん考えて、そこから自分を変えようと試みます。何が問題かを見つけて変えてみたら、解決するのはよくあること。わたしが安易にやめないと決めたのは、そうしたこともあるからです。

もちろん、自分を変えてもどうにもならないことは、なきにしもあらずですが、たいていは自分が変われば変えられるものです。

「これが嫌だ」「これでダメだ」と思ったら、「こっちはどうだろう?」と思考をめぐらせてみる。いまはそうした発想をする前に、嫌になったらその感情を優先させて、この条件が満たされなかったらとにかくダメ、と決めつけてしまう……。「こうでなければダメということはない」という発想をもちあわせていない人が多いように感じるのです。

同時に、ルーティン、つまり変えないということに対して、ネガティブな印象が強まっているようにも思います。同じことを長く続けることが、我慢できない時代になっているようなんですね。

変えないことには強さがあります。

もちろん、その強さは結果がともなわなければ証明できません。結果が出ない、進歩が見えないとなると、何かしら変えなければ続けられません。

だからといって、「何も結果が出ない。もう嫌だ、やめてしまおう」となるのではなくて、「こっちの方法をとってみたらどうだろう?」と考え、試してみることが大切なのです。

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