《『Voice』2014年10月号[特集]中国と世界の大問題より》
権利があれば、行使できるのは当然
今後10年間の日本の最大の課題は、ここまで強大となった中国にいかに立ち向かうかである。
当たり前のことのようであって、じつは、ほとんど誰も気付いていない。私自身その実情に気付いたのはつい最近のことである。
気付かなかった理由は、主として2つある。
1つは、それは、ごく最近の動きであり、しかも急速に年々増大しているので、つい、2、3年前の常識で考えていると、実態はまるで違っているということである。
もう1つは、中国経済が一時の2桁成長の時期が過ぎ、公害問題などが噴出して、いままでのような高度成長は続けられないという見通しが出てきていることである。そうした将来へ向けての悲観論ばかりに注意が向けられているために、過去の中国の急速な成長が現在にもたらしている甚大なる影響、そして、今後とも6、7%の成長は続き、中国はまだまだ巨大化するという見通しの重大さを見失わせている、ということである。
第一の点については、じつは私自身、気が付いたのはごく最近だった。
その経緯は、ほかの論文でも触れたが、集団的自衛権の問題を論じる安保法制懇談会の最後の日まで、気付かなかった。
少し脇道にそれるかもしれないが、ここで集団的自衛権の問題をもう一度レヴューしてみたい。政府解釈の変更はもう確定しているが、あとは、現場におけるその実施について、関連法案の修正が必要であり、それが、次の国会の会期中に大いに議論される予定であるからである。
集団的自衛権の問題は、法制懇が緻密な報告を提出し、その後の、自民、公明両党間の与党協議で徹底的に議論されている。
ちなみに私はこんな膨大緻密の報告は不必要と思っていたが、いまとなってそれはそれで意味があったと思っている。事実、その後、現在に至るこの問題の論議の過程で、日本は独立国として集団的自衛権が行使できるという本質問題においては、いかなる憲法学者、国際法学者からも、まともな反対論は提起されていない。あっても、些末な法手続き論だけである。
批判は、「外国で血を流すのか」とか、「徴兵制への道を開く」とか、論理のまったくつながらない低俗なデマゴギーしかない。ということは理論的にはあの報告に誰もチャレンジできないということである。
法制懇が同じ傾向の有識者ばかり集めたという批判に対して、北岡伸一氏は、「まともな安全保障専門家で反対の人はいないから」と答えていたが、ちゃんとした反対論が出ていないということで、それは実証されているわけである。
簡単にいえば、日本は、新憲法制定後の国会で、国連憲章を、何ら留保も付けずに国会で批准している。そこには、日本が集団的、個別的自衛権を有すると明記してある。したがって、日本が集団的自衛権を有することはいかなる論者といえども否定できない。
問題は、その後、政府が「その権利はあるけれども、その行使は許されない」という非論理的な答弁をしてしまったことにある。そして、長い55年体制のなかで、それを変更すると、社会党が予算委員会等で横になるという脅しの下で、その支離滅裂な答弁を繰り返さざるをえなくなっていただけの話である。
権利がある以上それを行使できるのは当然である。ただ、それは権利であって義務ではない。もとより、その権利を行使して鉄砲を一発撃つということは往々にして一国の命運に関する場合がある。したがって、その権利を行使するかどうかは、その都度政府が慎重の上にも慎重に考えて、行使の適否を決めるというのが当然、というよりも、人類の常識で考えて、ほかに考え方のありえようもない結論である。
その意味で自民、公明の与党協議の結論は、政府の手を縛りすぎるという批判はあるが、私は、あれでもなんとかなると思っている。
憲法の精神が許容する「必要最小限」の線引きを、従来のように集団的自衛権と個別的自衛権とのあいだに線引きをせず、正当防衛と過剰防衛のあいだに線を引いたという意味で正しいアプローチだからである。
与党合意は、くどいぐらい過剰防衛を警めているが、それは国家の安全に関わることであるから当然と思う。また、それが真に国家国民の安全に関わるかどうかは、その場になってみなければわからない。反対論が、表現が抽象的だと批判しているのは、もっともであるが、それ以外の方法はありえない。
東アジアの軍事バランス維持のために
ところが、集団的自衛権の議論が沸騰するにつれて、政府は、「国際情勢がここまで厳しくなった現在、いままでどおりの解釈では日本の安全を守れない」という議論を使うようになった。東シナ海における最近の中国の行動等を見ると説得力のありそうな議論だからであろう。
私としては、「馬鹿いうな、集団的自衛権はもともとあるので、情勢の変化など関係ない」といっていたが、ある自民党の派閥の研究会から、閣議決定前に派閥の態度を確定するために、「講演に来てくれ、それも、法律論はわかっているから、国際情勢の変化を中心に話してほしい」という依頼があった。
何十人も擁する自民党の派閥の態度を決めるためといわれると、お国のために大事なことである。そこで、あらためて国際軍事情勢を見直してみて、私自身が愕然とした。
法的議論ばかりにかかずらわっていて、国際情勢判断を閑却していたのである。
私の不明の至りではあったが、情勢は急転している。これなら、法律論がどうであろうと、日本国民の安全のためには集団的自衛権の行使を確保する以外に方法がないことがわかった。
そこで、私は法制懇の最後の打ち上げの日――本来ならばシャンシャンの手打ち式の日に――「こんな時間になって、新しい話を持ち出して申し訳ないが」といって、最近の国際情勢の変化を披露した。
そのとき私が使ったのは第4世代戦闘機の数の比較である。第4世代機のF-15といえば、日本が冷戦の最後の時期、ロン・ヤス時代に、営々として整備し、当時アメリカを除いて、世界最強といえる200機を備え、その結果として極東ソ連軍戦力を封じ込めてしまった最先端戦力である。
その戦力は冷戦終了後も保持され、日本自衛隊特有の高度の訓練、整備によって東アジアにおいて絶対的な航空優勢を誇っていた。
それに対する中国の第4世代機は、1996年ごろ、台湾海峡危機があったり、当時の尖閣問題があったりしたころでは、せいぜい3、40機で、それも訓練中であり、いざ尖閣上空など東シナ海で戦闘となれば、文字どおり鎧袖一触であった。
それがその後の中国の営々たる軍備強化で、2005年には、中国側が200機を超えるのである。その当時、私も含めて、危機感をもってその意味を指摘した人はあまりいなかったと記憶する。
さすがに、航空自衛隊は、それでは日本を防衛できるという説明ができなくなって、その1世代前の第3世代機F-4約100機を改修してその能力を向上させ、それで、中国の第4世代機に対抗できるとした。それが、実際それだけの能力があるかどうかは、いまでも不確かである。
しかし当時としては防衛予算の増加の可能性がまずゼロと考えねばならない状況で、他にどうしようもなかったのであろう。
ところが、このF-4を足した数も、たった3年で、08年には抜かれてしまう。このときは、私も含めて、これを指摘した評論があったという記憶はない。
こうなると在日米軍の第4世代機を足して考えねばならない。日米がそこまで自動的に一体であると考えてよいのかどうか、その点には疑問をもつ向きもあろうが、それ以外に対抗する手段もない。200機程度あるから、それを足せば一安心と思っているうちに、2013年にはもう追い付かれている、もう今年14年には追い抜かれているのであろう。
あとは、常時日本周辺にいてくれるかどうかわからないが、横須賀の空母機動部隊の第4世代の艦載機を足すしかないが、これを足してもすぐに追い抜かれるであろう。
もちろん軍事バランスというものは第4世代機の数だけで決まるものでもない。レーダーの性能、搭載ミサイルの性能など、多角的な要素がからんでくる。また、おそらく10年先のことであろうが、第5世代機の数の比較のほうが重要となる時期はいずれ来るのであろう。
ただ、1つだけ間違いなくいえることは、尖閣付近の東シナ海で、中国の海空軍など日本の自衛隊の前には鎧袖一触といえた時期は遠く過去に去ってしまったということである。また、日本の自衛隊の力だけでは、中国に対抗できなくなっていることも事実である。さらに、日本の力なしで、極東米軍だけでも対抗できなくなっている。つまり、東アジアの軍事バランス維持のためには、日米共同の対処、すなわち集団的自衛権の行使が必要な客観情勢となったのである。