1. PHPオンライン
  2. 社会
  3. 岡崎久彦 強大中国にいかに立ち向かうか

社会

岡崎久彦 強大中国にいかに立ち向かうか

岡崎久彦(NPO法人岡崎研究所所長)

2014年09月22日 公開 2023年01月11日 更新

 

中国を刺激しなくなった世界

 中国の力の急速な拡大は、軍備だけでない。各国の貿易統計を見ると、これも21世紀の最初の10年のあいだに中国の影響力が飛躍的に増大して、国際的なバランスが逆転していることがわかる。

 まず日本の貿易を見ると、輸出入総額では、2007年に、中国との貿易が米国を抜いて第1位となっている。

 米国では、もともと陸続きのカナダとメキシコとの貿易が大きいが、07年には輸入額で、中国がカナダを抜いて第1位となっている。輸出入総額ではカナダがまだ1位だが、中国は04年にメキシコを抜いて第2位となっている。

 EUでは、輸入額では、07年に米国を抜いて中国が第1位となり、輸出入総額では米国に次ぐ第2位となっている。

 豪州では、輸出入総額で07年に日本を抜いて中国が1位となり、その後は08年に日本が再度1位となったのを除いて、1位を維持している。

 インドネシアとの貿易では、輸出入総額で、13年に、日本を抜いて中国が1位となった。

 インドとの貿易では、10年に中国が1位となり、その後11年、12年とUAE(アラブ首長国連邦)が1位となったが、13年には、中国が再び1位となっている。

 それがどういう影響をもたらしているのであろうか。それはEUにおいて最も顕著に表れている。

 EUでは、とくにリーマン・ショック後の世界経済停滞のあいだ、中国は、多くの国から、経済の救世主のように見なされた。

 今年2014年6月にも李克強首相が訪英した際、プロトコールの前例を破って、女王に謁見が許されている。

 とくにヨーロッパが伝統的に強く発言してきた人権問題については、完全に中国に屈服してしまったようである。ヨーロッパ諸国がダライ・ラマ14世の訪問を受け入れたあと、中国はハイ・レベルの交流を中止したり、大型の商談を打ち切ったりして圧力をかけ、それは100パーセント成功した。現在先進国の首都でダライ・ラマ14世の訪問を受け入れているのは、ワシントンと東京だけになってしまっている。

 また、英国は、香港に50年間の自由を要求できる立場にありながら、香港における中国の恣意的行動に目を瞑っている。

 東シナ海、南シナ海における領有権問題については、欧州諸国はいっさい発言していない。中国を怒らせるような言動は期待しうべくもないような状況のようである。

 豪州と日本との関係は、安倍内閣とアボット内閣とのあいだで、画期的な前進を見せているが、その前の労働党内閣の時代は、豪州側では対中配慮が優先していた。現在の保守党内閣は日本との密接な関係を謳い上げるのにやぶさかでないが、その場合も、中国との関係については一言も言及しない態度をとっている。中国をけっして刺激しない態度である。

 インドとの関係も、9月のモディ首相訪日で大いに進展することが期待されるが、その際中国との関係に言及することは――もしあってもそれは友好的姿勢を示す発言であろう――差し控えるであろうと予想される。

 こういう状況では、現在世界では、パワー・ポリティックスに基づく戦略論は封じられている状況になってしまった。

 現在世界のバランス・オブ・パワーの変化を論じるならば、中国の勃興、とくにその軍事力の飛躍的増大を論じなければ何の意味もない。ところが中国との経済依存の大きさを考えるとその問題を議論することがタブーとなってしまう。こんな状況で、どうやって国家戦略論を論じられるのであろう。

 

強大ドイツと第一次大戦

 ただ、それは20世紀初頭のドイツの勃興を前にしての国際関係でも、多かれ少なかれそうであった。

 第一次大戦は独墺同盟対英仏露三国協商のあいだの戦いであった。しかし、1907年に成立した三国協商においては、ドイツの名はいっさいメンション(言及)されていない。

 英露協商は、日露戦争で極東への出口をふさがれたロシアが、中央アジアから南下して、大英帝国の心臓といわれたインドを脅かすのを抑えるためであった。そして交渉の結果、アフガニスタンを中立とし、イランは北部をロシア、南部を英国の勢力圏とした。これで、もう英露間にはアジアにおける戦争の可能性はなくなった。そこで消去法で唯一の敵はドイツとなったわけである。

 英仏協商の場合はもっと露骨である。一言でいえば、イギリスはエジプトを取る、フランスはモロッコを取るということで、アフリカにおける英仏の植民地競争に終止符を打ったのである。

 これはどう考えてもフランスが損である。エジプトとモロッコでは重要性がまるで違う。ましてスエズ運河はフランス人が建設したものである。しかし、これでフランスは、唯一の敵をドイツとする外交的勝利を収めたのである。それがたんなる植民地分割協定でないことは、その年1907年元日の日付のクロウ覚書に明らかである。キッシンジャーによれば、クロウはビスマルク亡きあとの、最高の国際情勢分析者であるが、当時のドイツの勃興、とくに海軍力の増強について書いている。

 「最強の陸軍力と最強の海軍力が1つの国家の中で結合すれば、世界がこの悪夢を克服するために結束するのは必然である」

 そして、安全保障環境の安定を決定するのは、意図でなく能力であるとした。

 1980年ごろ、私が防衛庁(当時)に着任したころは、いわゆる基盤的防衛力構想ができた直後であり、「脅威は能力と意図からなるが、現在ソ連はその意図があるとはいえないから脅威ではない」という型が決まった国会答弁があった。

 ソ連の脅威を認めれば、それに対抗する軍備が必要になる。ところが、それだけの防衛予算はない。ないならないでその不足を訴えるのが常道であるが、防衛費増強を訴えると、当時の表現でタカ派といわれるのを避けるために、いまのままでよいのだ、と理屈づけるための論理である。

 当時、防衛庁国際参事官に着任した私にも、そういう答弁をするように命令されたが、私はそれを拒否して一度もその種の発言はしていない。基盤的防衛力構想を主導した坂田道太議員などは、安保委員会で露骨に、岡崎でなく、他の政府委員に向かって答弁を求めたこともあった。

 クロウの緻密な分析をそのままご紹介するのは読者の負担になるので、その要点だけをいうと、ドイツの将来には2つの可能性がある。1つは明らかに軍事力の優越をめざしていて、それは周辺諸国への脅威となるという予想である。もう1つは、国際社会におけるドイツの正統的立場を確立し、ドイツ経済とドイツ文化の恩恵を世界にもたらそうとすることである。

 しかし、クロウは、第二の可能性は、将来いつでも第一の可能性に転じられる。また、第二の可能性が達成された強大ドイツは、それ自体脅威である、と論じている。

 事態は、まさしくクロウが予言したとおり、7年後の第一次大戦まで、まっしぐらに推移していく。

 公式の外交文書において、ドイツをメンションしないのは、それはそれでよい。しかし、その裏の政策文書においては、国家戦略をはっきりさせておく必要がある。さもないと、外交辞令と戦略とを混同してしまう恐れがある。

 経済の相互依存度についての議論も、当時すでに行なわれた。

 1910年に出版された、ノーマン・エインジェルの『グレート・イリュージョン』は、経済相互依存度と戦争との関係についての古典的名著である。

 そのなかでエインジェルは、先進工業国間の経済相互依存関係がここまで進んだヨーロッパにおいては、戦争は勝者敗者両方にとって損になる。少しぐらいの領土を取ってみたところで、経済的にあまりプラスにならないから無意味である、と論じた。それは、当時西欧文明の絶頂期を謳歌していたヨーロッパでは、ヨーロッパの先進性を意味するものとして、大いに受け入れられ、各国でベストセラーとなった。

 しかし、その先進世界で、第一次大戦は起こってしまった。その結果エインジェルは見通しを誤ったという批判を受けることになる。

 事実、第一次大戦勃発に際して、当時のカイゼル、ツアー、英仏の指導者の頭の中の片隅にも、経済相互依存度に対する考慮などカケラもなかったと思う。

 私は年来、経済と国際政治とはまったく無関係のものではないかと思っている。

 つい最近まで、米国政府の一部には、台湾問題はもう解決したという風潮があった。国民党政権となってから、大陸と台湾とのあいだの経済相互依存度が増大して、切っても切れない関係になり、いずれは大陸と台湾とは統一されるだろう、という見通しの上に立つ議論である。

 私はこの議論には一度も納得しなかった。台湾の人が中国に莫大な投資をしていることは知っている。しかし、ほとんどは、10年ぐらいで元を取る投資である。その点、20年ぐらい先を考える日本の大企業の投資とは異なる。ということは、ほとんどはもう元を取った投資である。その投資を守るために、台湾の自由を放棄して、共産党一党独裁の下に入るということは考えられない。

 だから、予想外の事態の進展で、両岸の経済交流が途絶しても、それは、戦争だからということで諦めるほかはない。戦争などはとてもできないから、降参して統一しようなどということはありえないと思う。

 経済で政治が動くという考え方の裏には、おそらく、下部構造が上部構造を変えるというマルキシズムの遠い影響もあるのではないかと思う。

次のページ
軍事バランスは国家関係の基本

著者紹介

岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)

NPO法人岡崎研究所所長、外交評論家

1930年、大連生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省入省。1955年ケンブリッジ大学経済学部学士および修士。防衛庁国際関係担当参事官、初代情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを歴任。1992年退官。著書に『日本外交の情報戦略』(PHP新書)ほか多数。

関連記事

アクセスランキングRanking